慙愧に耐えない |
2004年1月26日(水) 今日は朝から会社でヒヤリングを受けていた。 そんなときに山岳部のKが隣に来て耳打ちをした。 「話がある外に出てくれ」 会議室の外に出ると「実は山岳部員のMの行方がわからない」 「どこの山で遭難したんだ」と聞いた。 「遭難ではなく失踪している。寮の部屋からは遺書が見つかっている」 「場所はまだわかっていないから、捜索のしようがない」 その後、会議をしていても身が入らない。 10時頃抜け出して情報を収集すると、どうやら彼の車が群馬・長野県境の内山峠で見つかったとの情報が入っていた。すでに山岳部員は5名がそちらに向かっているとの事だった。すぐに上司に連絡、早退して捜索に向かう旨を伝え内山峠に向かった。 自宅に帰り装備をかき集めて現場に向かった。 13時頃到着した内山峠の駐車場は警察車両や関係者の車でごった返していた。Mの車はその外れに寂しく駐車してあった。どうやら鍵の掛かっていない車内には(このメモを見た方は警察に連絡をしてください。私は道を挟んだ方向に行きます)との書き置きがあり、これがMの消息を探す手がかりとなった。 警察は朝からおよそ10人体制くらいで捜索をしており、警察犬の活動にも支障があることから我々民間人は立ち入りが制限されていた。しかしなかなか発見できないために、午後になって我々にも許可が下りた。すでに到着していた山岳部員5人と私を含めて、6人が荒船山登山道とは反対側の熊倉峰の方向にはいることになった。 我々が考えたことは、このような場合は遠くに行くことは無い。遺書を残すと言うことだから、発見して貰いたいと言う潜在意識があるはずだ。そして方法としては紐を使うだろうとの推定だった。そうしてみると付近の檜林は、紐が掛けられるような枝がない。従って雑木林と言うことになる。 登山道の右の斜面を上部に向かって広がって登っていった。やがて雪の中に足跡を発見した。何も手がかりがないから、どんなものにも手がかりを求めているからこれに賭けることにした。無線で散在している仲間を呼んでこの足跡を追ってみる事にする。足跡は何の乱れもなく雪の中を進んでいく。そのうちにその足跡は笹藪に消えて見えなくなってしまった。仕方なく笹藪の中を暫く探したがそれらしき発見は出来なかった。 無線で駐車場を呼ぶと、警察は熊倉峰を越えて物見山に行っているらしかった。なにか有力な情報を掴んでいるのかもしれない。しかし、我々は専門家ではないので、警察が見落としている場所を探すことにしよう。 上部には雑木の間から1210mのピークが見えている。「あのピークまで行ってみたい」一人が呟いた。「それでは装備のしっかりしたものが行くことにして、他は下山しよう」 そこで残った3人が1210mのピークに向かう事にした。笹藪の中の直登は困難だったが、何としても発見するという気持ちが我々の原動力となっていた。尾根に着くとそこにも雪の中に足跡があった。そのまま尾根を辿って風が吹き付ける1210mのピークに立った。しかし、そこでは何も発見することは出来なかった。 「戻って出直すことにしよう」 「この斜面を下れば早めに着くことが出来るぞ」 「いや、もう一度この一帯を探しながら戻ろう」 「見落としがあって、悔いを残しては絶対にならない!!」 「ひょっとして荒船山の艫岩が見える展望の良い場所かもしれない」 何となくそんな気がして、三人で間隔を置いて東側にトラバースした。 檜の植林地は県境を越えて群馬県側に入ると雑木林に変わる。それとともに荒船山の大岩壁が目に飛び込んできた。すると並行して一番下を歩いていたメンバーの叫び声が響いた。慌てて笹藪の斜面を下っていく。声を出したメンバーは指でその方向を示しながら立ち尽くしていた。その方向を見ると斜面の雑木に彼の姿が力無くあった。声を掛けても答えはない。 脱帽して、手袋を外して手を合わせた。涙と怒りがとめどなく溢れてきた。 無線で駐車場にいる仲間に連絡。 やがて警察が到着して、黙々と作業を行った。我々はその一部始終を呆然と見ていた。場所は登山道の脇で駐車場からも見える場所だった。警察を含めて何人も近くを通過している。なぜこの時間まで、発見されなかったのか。彼が我々を待っていたのかもしれない。 彼の家族が駐車場にいた。ただ立ち尽くすその姿に、我々もなにも言えず、涙も流れず、何も出来なかった自分たちを責めていた。 警察や関係者が去った駐車場はひっそりとして、冷たい風が終始吹き抜けていた。その後駐車場から6名の山岳部員は石を持ち上げて現場に積み上げた。線香を手向けると、煙は残照に輝く荒船山の岩壁に向かって立ち上り消えていった。 Mは34歳、あまりにも悲しい結末だった。 遺書から察すると仕事が原因と推測できる。何事にも真面目に真剣に取り組んだ彼を、ここまで追いつめて良いものだろうか?誰を責めたらいいのだろう。責めたところで何になるのだろうか。それよりも山の仲間として、なにも出来なかったことが悔やまれる。彼の遺書は我々山岳部員にも残されており、そこには楽しかった思い出が綴られていた。 合掌 群馬山岳移動通信/2004/ |