酩酊状態で雪山をさまよう「蕨山(奥武蔵)」 登山日2001年2月3日
2月3日(土) なかなか山に行けず、ついに1月は山無し月となってしまった。2月に入ってやっと時間がとれたので、去年の忘年山行のメンバーと一緒に奥武蔵の山に出かけた。目的地は特に決めなかったが、蕨山付近で宴会をやろうと言うのが唯一の目的であった。 保谷猫吉氏によって付けられたメンバーのニックネームは、「駄馬」、私は「重鎮」と言うことになっている。私のニックネームの由来は、ただ体重が重いと言うだけで付けられてしまっている。 とにかく駄馬氏と私は、遙々西上州の田舎から2時間をかけて、埼玉県の飯能駅に猫吉氏を迎えに向かった。猫吉氏は既に30分前に駅に到着、寒さに耐えながら鮮やかなオレンジ色の羽毛服を着て立っていた。それでも、かなり待ったらしく顔はちょっと青くなっていた。 車に乗り込み、名栗湖を目指して賑やかに目的地に向かった。 尾根に到着する頃にはすっかり汗ばんでしまい、着ていたジャケットを一枚脱ぐほどだった。ここには標識があり、蕨山の文字が上部を指していた。ここからわずかな距離を登ると、古くなった鳥居がありそれをくぐると、鬱蒼とした檜木立の雪道になった。雪は踏み固められて、気を抜くとスリップして転がりそうだった。 やがて、朽ち果てそうな鳥居をくぐると、そこは広場のようになっていて一面が雪に覆われ踏み跡もなかった。ここは金比羅神社の境内で、社は火災で焼失したらしく跡形も見られなかった。ただ、周囲の木の幹が焦げているので、その凄まじさを伺い知ることが出来る。 再び凍結した道を辿り急坂を喘ぎながら登ることになった。それでも上部に近づくに従って深雪の中にトレースが残り歩きやすくなってきた。展望はなく2人の姿を確認しながら登った。いつしか登る順番は、駄馬、重鎮、猫吉の順に固定化されてしまっていた。 傾斜が緩やかになったときに、「そろそろ金比羅山が近いんじゃないかな?」と前を行く駄馬に尋ねた。こんな時はエアリアマップではどうにも正確な位置がつかみにくい。後ろからマイペースで登ってくる猫吉を待った。猫吉はかつてこのルートを歩いたことがあるので、その記憶を頼りにする事にした。やがて猫吉が到着、記憶によればちょっと後ろにあるコブがそれらしいとのことである。道は金比羅山を南に巻きながらつけられているのだ。 ちょっとルートを戻り、そのコブに登ることにした。コブの一番高いと思われるところには、それらしき形跡はなかった。三角点はおそらく雪の下なので見つけることは出来ないだろう。しかし、2ヶ月前に登った人の情報によれば標識がある訳なのだ。ところが、それが見つからないことで、山頂の位置の特定が混乱してしまった。そこで猫吉氏が持参の2万5千分の1の地形図と私のGPSで位置を知ろうとした。しかし、なんと地形図には経緯度の線が書き込まれていなかったのだ。これではGPSは全く役に立たない。 仕方なく、周囲を3人で歩き回った。近くには電波反射板の施設があるが、これは地形図には表現されていない。これも位置の特定を混乱させる要因となった。しかし、地形図と周囲の様子を見比べても、ここが金比羅山であることに間違いはなさそうだ。ともかくここで3人で交互に無線運用をして、時間を過ごした。 金比羅山からの道は傾斜もそれほどきつくなく、ひたすら雪道を歩くだけになった。 大ヨケノ頭はルート上の大きな屈曲点だった。またここは落合地区に向かう道の分岐にもなっていたが、そちらに続くトレースは見あたらなかった。3人で行動するにしても体力的に違うから、3人がまとまって歩くと言うことはなかった。とにかく駄馬は荷物を余分に持っているはずなのに、とにかく歩くペースが早い。このペースに合わせると、とてもではないが10分とは持ちそうにない。 そんなわけで、次のピークの藤棚山も3人がバラけて到着した。藤棚山は地形図にその記載がないので、山ランの申請には無効である。しかし、ここには達筆標識が残されており、特別の感情を持って懐かしむ人もいる、特に猫吉氏はその一人である。手でさすったり、カメラに納めたり、バックにして記念撮影をするなど、マタタビにすり寄る猫のようであった。 目指す蕨山はもうすぐである。駄馬と猫吉を置いて先に藤棚山を出発した。ところがものの10分もしないうちに駄馬に追いつかれてしまった。しかしここからが苦難の始まりであった。山頂が近いとそれなりの気配がするものだ。その気配が近づくとともに、上部から中年女性のパーティーが嬌声をあげながら降りてくる。いや斜面を滑り降りてくるのである。これから我々が登ろうとしている急斜面に、付けられたステップをお尻で崩しながらである。おもわず唖然としてしまった。仕方なくその横を、地道にステップを切りながら登る羽目になってしまった。 そしてなんとか蕨山の山頂に着いたときには、へとへとになっていた。山頂からの展望は素晴らしく大宮方面の市街地、去年登った武甲山その奥には日光方面の山並みが霞んでいた。山頂は20人ほどが思い思いに過ごしていた。幸いにもベンチが一つ空いたので、そこで今日の宴会の準備を始めた。今日のメインは、おでんである。駄馬が担いできた食材を鍋に入れてコンロに火を点ける頃、猫吉氏が山頂に到着した。飲み物はビール、焼酎、日本酒と次々に出てきた。私はホットウイスキーと洒落込んで、しきりにシェラカップで呑んでいた。 あっという間に2時間を山頂で過ごしてしまった。すでに陽は西に移動しており、これはちょっとまずいと言う気がした。時間もそうなのだが、どうも足元が怪しいのである。なにしろ真っ直ぐ歩くことが難しく感じるのだ。ともかく山頂標識の前で記念撮影をして次の有間山に向かうことにした。この時はあまり山頂標識に疑問を持たなかったのだが、この山頂標識はあとから1033mと書き換えられていたものだったのだ。 蕨山から少し下って名郷への道を分けてから、有間山に向かおうとしたが腰のあたりまである深雪にすっかり戦意喪失、意気消沈してしまった。それでも駄馬は猛然とラッセルをして前に進んだ。慌てて猫吉とふたりでその駄馬を呼び戻した。 残念だが無理をする必要もないし、時間も遅くなってしまったので、帰ることが最適の選択と言って良いだろうと衆議一決した。 しかし、酔いはなかなか醒めずに、名栗湖に付いた時はすっかりあたりは暗く、足元はフラフラだった。おまけに駄馬の車で帰ったのだが、自宅付近で嘔吐、とんでもない酩酊状態の山行だった。 後日、蕨山の山頂を調べると、我々がいたところはただの展望台で、山頂ではなかったのだ。山頂は1044mであの展望台よりも11m低かった。なにやら悔いの残る山行となってしまった、雪の蕨山だった。やはり2万5千分の1の地形図を持たないと言うことは不利だとしみじみ思った。 「記録」 8:49名栗湖--(.17)--09:06尾根--(.23)--09:29金比羅神社--(.19)--09:48金比羅山10:25--(.47)--11:12大ヨケノ頭--(.38)--11:50藤棚山12:15--(.28)--12:43蕨山14:48--(.05)--14:53引き返す--(.16)--15:09蕨山--(3.02)--18:11名栗湖 群馬山岳移動通信 /2001/ |