西上州の寂峰「諏訪山(上野村)」
登山日1995年4月29日
4月29日(祝)
今年の連休はあまり天気が良くないようだ。かろうじて初日の「みどりの日」は、雨は降らない様なので、アカヤシオの咲く時期に登ろうと思っていた上野村の諏訪山(赤地さんの言う通り、中里村にも諏訪山があるからややこしい)に行く事にした。ガイドブックをみると、往復7時間かかると書いてあるので、自宅を朝6時に出発した。この付近ならば、ミニバイクの行動範囲なのだが、雨が降った時の事を考えて車での移動となった。
南牧村から塩の沢峠を越えて上野村に入り、ここからぶどう峠を越えて、長野県の小海町に続く道にはいる。いつもの事だが、ここの道は対向車が来ない事を願いながら進む。なにしろ極端に狭い道幅、「20キロ走行をお願いします」の看板に偽りはない。やがて「浜平→」「昇魂の碑→」の標識があり、これに従って左折する。道はむしろこちらの方が広い様な気がする。「昇魂の碑」は昭和60年8月12日に、日航ジャンボ機が墜落して520人が死亡した、まさにその現場である。あのときは、ひたすら警察無線を傍受した事が思い出される。
浜平(はまだいら)の村落に入ると道は再び狭くなった。付近に注意しながら進むと、「諏訪山登山口」の標識が見えた。しかしここには駐車余地がない、浜平鉱泉奥多野館の駐車場があるのだが、5台程度しか駐車出来そうにない。しかたなく、そのままさらに奥に進む。150メートルほど行った所で、適当なスペースがあり、そこに駐車する事にした。
(駐車スペースは、登山口の前後にかなりあったので、少しだけ歩けば見つかるので心配はいらない。)
登山口の標識のある車道から少し下ると、神流川に出る。ここには小橋が約10メートル間隔で2本架かっている。下流のものは鉄骨で、かなりしっかりしており、浜平鉱泉奥多野館につながっている。上流のものは、登山道につながっており、木橋で今にも朽ち果てそうな雰囲気がある。私の体重が支えられるか不安になる。しかし乗ってみると、なかなかしっかりしていて安心感がある。この木橋は山村の風景にとけ込んでいて、写真の良いポイントではないかと思う。
5分ほど歩くと営林署宿舎が道の左手に現れる。これも現在は使われている雰囲気はない。しかし、無数の張り紙があり、「小屋のまわりで大便するな」と書いてある。たしかにここは、時間的あるいは位置的に、絶好のポイントなのかもしれぬ。もしここに宿泊する人がいたならば、たまったものではない、危なくて外に出られないだろう。
沢沿いの道は快適で、よく整備もなされている。要所には丸木橋が設置され、梯子もかけてあった。さらに標識も適所に設置されているので、迷う事もなかった。
道の脇は花の数も多く、いちばん多く目についたのは「ハシリドコロ」でおびただしい数であった。さらに「ヒトリシズカ」「エンレイソウ」葉に特徴がある「エイザンスミレ」そして珍しい「ヒイラギソウ」は葉だけ顔を見せていた。もちろん「ミツバツツジ」は素晴らしい色合いで山を彩っていた。
歩き始めて34分で、一旦沢の右岸から離れるが、5分ほどで再び沢に戻る。水場はここが最後となった。今度はジグザグに雑木の斜面を登る事になる。沢から離れると、今度は沢音が消え、鳥の声が耳に入るようになった。しかし、鳥の声には全く知識がないので、鳥の名前を判定する事は出来なかった。人は知っているものしか見ていないし、聞いていないと言われるが、たしかにそうだと思う。きっと近くにあっても、見ていない植物や、動物がいるに違いない。そう考えると、漫然と山を歩くのも、もったいないと思う。(こんなこと考えるのは、歳を取った為なのかな)
やがて目の前に稜線が見えてきた。それと共に「ヤッホー!」との若くない女性の声がした。それに答えるように「ヤッホー!」と男性の声がした。私などはとてもこんな山で、声を出すなんて出来ない。私の声は「地獄のテノール(本当はベース)」などと言われているので、それこそ人迷惑になってしまう。
稜線に着くと、男性2人、女性2人の中高年パーティーが休んでいた。ここで一緒に休む理由もないので、簡単に会釈をしてそのまま通過した。そしてさらに歩くと、おびただしいほどの標識にある「湯の沢の頭」に着いた。ここで10分ほど休憩したが、なにぶんにも曇空で展望が悪く、休んでもあまり気分が良くない。
ここからは稜線の尾根歩きだ。先を見るといくつもコブがあるので、アップダウンに泣かされるのかと思った。しかし、そのコブはことごとく下部を捲いて行くので、ほとんど水平に近い道を歩く事になった。やがてトタン板で囲っただけの、6畳程の広さのある小屋に着いた。これが「弘法小屋」に違いない。ガイドブックのコースタイムよりも40分も早く着いたので、なにかあっけない気がした。
小屋から傾斜を増した道を13分歩いた所で岩場が現れ、そこにはアルミの2連梯子が2本設置してあった。更に古くなった鎖も設置してあった。あまり危険な感じはしないのだが、過去に事故でもあった事があるのかもしれぬ。梯子の下部には落下防止用の網まで設置してあると言う丁寧さだった。
そして、小さな岩峰を回り込むと、目の前に大きな岩峰が現れた。これが「下ヤツウチグラ」に違いない。あまりの険しさに、いったいどこから取り付いたら良いのか、途方にくれるような姿だった。上部は時折ガスがかかり、その険しさを更に助長して見せている。ともかく、この自分がいる小さな岩峰から一旦下りてから登り出す。見かけによらず、登りは簡単で通常の斜面の登りと全く変わらなかった。途中に鉄の梯子が置いてあったが、特に必要なものではなかった。
岩峰に高度を上げながら南側に回り込むと、岩場の道が上部に20メートルほど直登して続いていた。ここを登りきると、そこが三笠山(下ヤツウチグラ)山頂だった。山頂には大きな標識が2本「三笠山」と書いてあり、無数の赤白の旗が立っていた。旗には「三笠山刀利天王」と書いてある。これは山頂に御嶽講の三笠山刀利天(みかさやまとりてん)を祭ってあるからなのだそうだ。そして木で作られた祠が設置され、四方を針金で固定してあり、さらに石が乗せられていた。これは風対策なのだろう、この山頂は見晴らしが良い分、風が強いと思われる。しかし今日は無風で曇空、これから向かう諏訪山(上ヤツウチグラ)が辛うじて見えているにすぎない。
さて、これから諏訪山に向かうのだが、その標識が全く見あたらない。適当にアカヤシオが咲き乱れる薮の中に入ると、道がつけられていた。その道はやがて岩場にかかり、古いロープが設置されていた。しかし、これもロープを使う事もない程度の岩場であり、簡単に下に下りられた。
ここからは雑木の中の道を歩くが、ちょっと薮が気になる。それでもシャクナゲ、ツガの木がかなりあり、中でも目立つのはアセビの木である。この付近はまだ芽吹きが始まっていないのだが、常緑樹のアセビの緑と、白い花は春を感じさせるからだ。
三笠山から20分程で諏訪山山頂に着いた。山頂は登山道の延長の様で、標識が2箇所に別れて4本設置されていた。「KUMO」もあるはずと、付近を探したが見つからない。三等三角点の北の木に、ビニール被覆の電線が巻き付けてある。これが間違いなくKUMOの痕跡だ。下を掘り返してみたが、ついに見つける事は出来なかった。
山頂で、食事をして30分ほど経ったところで、登山者が一人やって来た。なんだかんだと話をしているとさらに、途中で追い越した中高年の4人がやってきて、山頂はかなり賑やかになった。ナイスミディーの声が寂峰に響いた。これはたまらないので、退散して少し下がった所で、無線運用を行った。1回の呼出しで7局と交信したが、寒くなってきた事もあり、切り上げて無線機の電源を切った。
翌日は天気予報では雨だったが、予想に反してかなり良い天気となった。この時期の天気は数時間先のものも難しいのかもしれない。
「記録」
浜平鉱泉07:54--(1.13)--09:07尾根--(.06)--09:13湯の沢の頭09:23--(.29)--09:52弘法小屋--(.34)--10:26三笠山(下ヤツウチグラ)10:37--(.21)--10:58諏訪山山頂12:22--(1.51)--14:13浜平鉱泉
群馬山岳移動通信 /1995/