その後の「四郎岳」と「燕巣山」 登山日1995年9月30日
尾瀬の大清水から鬼怒沼に登ったときに、三角定規の形をした山が見えていた。その特徴ある山は「四郎岳」で、美しい直線で作られた稜線が素晴らしいと感じた。(武内さんも鬼怒沼山に登った時そのような表現をしていた)そして、私もいつかはあの山の頂きに立ってみたいと思った。
そこで早速YAMAルームのファイルを検索してみると、山の強者が苦労しながら登っていた。自分には無理かと思ったが、それでもIJMの発見したルートを辿ればなんとか登れそうな気がしてきた。その中でMLQの書き込んだファイルには気になる記述があった。それは「四郎岳は群馬の山だから、次にここに来るのは群馬グループ(HIG,JDS,KXW,もう一人、巻き巻きの君はちょっと苦しいかな)の誰かであろう」とある。これは明らかに登れないと言われているようで悔しい。そこでその悔しさを胸に何とか今年中に登ろうと狙っていた。(ガイドブックでは山渓で発行したハイグレードハイキングに紹介されていたが、これはかなり難しいコースのようだ)
各局のファイルを読んで検討して、ルート図を作成した。重要な目印や場所はルート図に特に唇入りに書き込みをした。そして何度も読み返すうちに、迷い易い場所はそれなりにイメージが出来上がった。
9月30日(土)
奇しくもMLQが四郎岳に入ったのが93-10-01なので、それから丁度2年の歳月が過ぎており、今はどうなっているか一抹の不安がある。2年の歳月であの廃道がさらに悪化していない事を祈るばかりだ。KQAは「やがてあの尾根道も原始のままの薮に覆われる日が来るかも知れない」と書いているので、よけいにそう思った。
丸沼温泉の広い駐車場は半分ほど埋まっている。宿泊客の車と言うよりは、釣り客の車が多いようだ。駐車場から先はダートの車道が延びており、その下には沢がY字型に流れ込んで交わり丸沼に流れ込んでいる。手前がおそらく湯沢で、奥の北西に延びているのが四郎沢に間違いなさそうだ。四郎沢は駐車場からみると、堰堤が見えて河床がコンクリートで改修されているのが見える。
支度をして歩きだす。駐車場の外れには「湯沢峠」の標識が立木に打ちつけられていた。しかしこの標識は無視して、数メートル先の湯沢の小さな流れを渡り、その先の四郎沢に入った。ここからは右岸につけられた幅の広い車道を辿って歩く。やがて車道は砂防ダムの上部に入り、終点となっていた。これが四つある内の第一の砂防ダムに違いない。振り返ると駐車場は既に見えず、奥白根山のドームの上部が手前の山の稜線の上に見えていた。
ここからは適当に沢の中をルートを選んで歩いた。このルートは何回か沢の中に入る事があるので、雨天時には絶対に使えないと思う。もし途中で天候が急変したらどうするのだろうと不安になって空を見たが、幸い今日は雲が多いものの雨の心配はなさそうだ。それから今日は水の中に入る事も予想して、軽登山靴でなく皮製の登山靴を履いてきたのは賢い選択だったようだ。MLJがゴム長靴で登ったと言うのもここにきて、はじめて納得できる。
所々にダム工事に使ったと思われる廃林道が現れた。三番目のダムを過ぎた所では素晴らしい道が現れて、これを辿ると笹の中に何かの動物が寝ころんだような跡が見られた。ちょっぴり緊張したが、今更引き返す訳にもいかないので度胸を決めて先に進んだ。四番目のダムを越える時にプレートを見ると「湯沢T」の文字が見えた。これは間違えて湯沢に入ったのかなと思ったが、このルートは湯沢とは思えない。絶対に四郎沢だと確信して更に先に進んだ。
やがて沢の様子が変化した。歩きにくい石が無くなり、白っぽい沢床のナメ沢になったのだ。左からは沢が流れ込んでおり、各局の報告の通り倒木が沢を塞いでいた。二年を経過してもこの目印は健在だった。この枝沢を見送り更にナメ沢をそのまま歩く。ここから右岸の斜面に注意しながら行く事になる。それはどこかに登り口がある筈だからだ。そしてその登り口は、かなり踏み跡がはっきりとしておりすぐに解った。それに上部には赤テープの目印があったからだ。
踏み跡は人間のほかに動物の道にもなっているようで、実際に残されている足跡には蹄の形があった。上部に登ると、はっきりした道がネズの木の林の中につけられていた。あまりにも素晴らしい道なので、なにか恐ろしいような感じさえ受ける。やがて尾根が狭まり先ほど別れた倒木の沢と、ナメ沢の二つの沢が見えるようになった所の立木に看板が打ちつけられていた。看板は古いものらしいが、赤い色と「十條製紙」と書かれた文字はハッキリとしていた。そして「93,10,1 MLQ」の文字もハッキリと残っていた。
道は再び左側の倒木に塞がれていた沢に降りる事になった。沢に降りると倒木が頭上にいくつか倒れており、最初の一本にはシュリンゲが巻かれていた。倒木の下をくぐって更に沢をつめると、沢が二分する事になる。左の沢は水量が多く、右の沢は水量が少ないのだが、なぜか右の沢の方が沢床が低いのでこちらが本流なのであろう。MLJが間違えて断念した場所がまさにここなのだ。しかし今日は間違えることもなくすんなり右にルートを取った。
さてこの先に見ておきたいものがある。それはIJMが残した猫吉さんの為の標識だ。猫吉さんによれば「そのアクリル板はキラキラ光ってまさに希望の星」と表現している。私も期待に胸を膨らませてそれを探して登った。しかしそれらしき物が見あたらない。何度か倒木を隅々まで見ると、ナイフで削り取った四角い窪みを発見した。おそらくこれが希望の星のあった所に違いない。残念ながらいまではそれは無くなり、これを削った鋭利なナイフのあとしか残っていなかった。
この先で右岸にある道を探すと、これもすぐに見つかり、沢から離れ左の尾根に登った。尾根につくと白いアクリル板が立木に下げてあり「四郎峠へ MLQ」と書いてあった。これで安心、ここからはたいして迷うこともなく四郎峠に行けるはずだ。ここからの道は下草や笹薮もなく素晴らしい登山道だ。などと安心していたら、目の前に突然岩壁が現れた。さて困った、これは岩登りかな!そう思ってケプラー繊維の手袋を出した。しかし良くみると岩壁の下の左の笹薮の中に道が見えるではないか。やれやれ、これで岩登りはしなくて良さそうだ。そこを通過すると水量の少ない沢を渡って再び、樹林の中の道となる。
近くで鹿が警戒の声を発した。たとえ鹿だと言ってもあまり気持ちの良いものではない。そこでラジオのスイッチを入れたが、中波の大電力放送局の電波もここまでは届いていないらしい。あまり受信状態は良くないのだが、雑音の中の音を聞くのは嫌いではないので、そのままラジオはつけっぱなしにした。この山は人が登るような山ではないから、ラジオの音も迷惑にもなるまい。やがて稜線が近くなり、そして四郎峠に到着した。
四郎峠の稜線には幅の広い素晴らしい道がつけられていた。そして立木には一辺が30センチ程の正方形のステンレス板があり、「E」と赤い文字が書かれていた。各局も悩んだようだが、結局は私にも文字の意味は全く意味不明だった。ステンレス板にはMLQの書き込みも見られた。日付が下にあったものと違うのは、一泊して一日目と二日目に分けて登った為なのだろう。KQAの標識はないかと探したが、見つからない。良くみると立木にビスがめり込んでおり、おそらくこれがその残骸なのだろうと思われた。立木にビスで止めると木の成長で、ビスだけが取り込まれてしまうのでこんな事が起こる。四郎岳と燕巣山どちらを先に登るべきか迷ったが、憧れの四郎岳をともかく登っておく事にした。
四郎峠からまずは四郎岳に向かう事にする。すぐに稜線の左側(南側)に赤い板に「十條」と書かれた標識がつけられていた。そして足元には赤いペンキで上部が塗られている「東電」と書かれた標柱が、延々と打ち込まれていた。「東電」の裏側のマークは今のパンダの足跡のようなものではなく、なつかしい稲妻のものだった。
はじめのうちはなだらかで良かったのだが、突然にその登りはやってきた。それはとんでもない急登だった。ある程度は予想していたが、これほどきついとは思わなかった。今回はストックを持って来なかった事が悔やまれた。ストックがあればかなり楽だったに違いない。途中で木の枝があったのでそれをストックのかわりにしておいた。振り返ると四郎峠がかなり下に見え、そして燕巣山がその先に吃立していた。頻繁に高度計を見るが先は長そうだ。途中ちょっとした岩場があり、ここは良い気分転換の場所となった。何気なく道に落ちているモミの木の枝を見て愕然とした。それは自然に落ちたものではなく、明らかに人の手が加わったものだ。下の笹を良く見てみると茎は確かに何かで切られていたのだ。こんな人の来ない薮山で、これだけの道を整備するのにはボランティアでやれるだろうか。第一にここを整備すると言うその目的が分からないのだ。謎は深まるばかりのこの道の意味である。
きつい登りを喘ぎながら登ると、やがて傾斜も緩くなり三角点のある山頂に到着した。素晴らしい道はなおも先に続いている。IJMはこの道を1時間掛けて降ったが分からず、結局は2時間掛けて登り返したと言う。とてもそんな芸当は私には出来ない。
山頂の調査にとりかかる。不思議な事にスコップが2本置いてあり、その下には何に使うのだろう、板や材木がかなりの量で置いてあった。まさか山小屋を立てるのかななどと考えてしまった程だ。三角点の脇を掘ってみると、フィルムケースが出てきた。中を開けると桐生市のAさんの名刺が出てきたがほかは何もなかった。達筆標識は今でも健在で、文字こそ消えかかっていたが山頂標識としての価値は十分にはたしていた。MLQの書き込みはそのまま残っていたので、その又横に私も落書きを施した。
KUMOもある筈なので探してみるが、見つからない。そのうちに立木に見覚えのあるビニール被覆の電線が目に入った。しかし何もついていないので、下を掘り返してみるとそれは無惨にも半分に折れて落ち葉に埋もれていた。更にその半分はどんなに探しても見つからなかった。これではしかたないのでKUMOの残骸の半分は持ち帰る事にした。(従って今後は四郎岳にKUMOはありません)山頂からの展望は車を駐車した丸沼方面が開けていた。そして奥白根山が一際目立っていた。
電波の飛びは良くない、430Mhzで2局ほどQSOをして山頂を後にした。
四郎岳の下りは、これ又恐ろしい。登るときに急だったのだから、帰りは当然急坂を下る事になる。とてもハイスピードで下るなんて不可能と思われた。ゆっくりと一歩々確実に足元を確認するしか方法がなかった。
再び、四郎峠に到着してここからは反対側の燕巣山だ。数メートル歩くと朽ち果てて倒れた立派な標識が現れた。微かに「←尾瀬 丸沼→」の文字が読み取れた。しかしその指し示す両方向には何の道も無いようだった。1981メートルの無名峰を越えて少し先の鞍部は丸沼の方面が開けており、気持ちがいいのでしばらく休憩とした。
ここからは再び急登が始まった。四郎岳の登りがこたえているために、こちらの登りの方がきついような感じだ。MLQは標高差25メートル毎に息を整えたらしいが、こちらは5メートル毎に大休止の状態だ。しかし立ち止まると傾斜が急で、急斜面に立つものだからふくらはぎが痛くなる。この幅の広い道はどこかで歩いたような気がする。しかしそれが何処だったか思い出せない。老化が始まっている事は確実なようだ。
登山道にはやがておびただしい数の鹿の糞が延々と続く事になった。甘納豆とよく表現されるが、さしずめソラマメの甘納豆と言った大きさである。ここで転けたらとんでもない事になると、早くも帰りの心配が頭の中をよぎった。振り返ると今度は四郎岳が大きく吃立してそびえていた。
燕巣山は四郎岳よりも66メートル程高い標高2222メートルだ。従って四郎岳を見おろすようにならなければ山頂には達しない。しかし何度振り返っても、目線の上に見えた。ここでも相変わらず東電の杭はかなりの数が打ち込まれていた。
やがて傾斜が緩やかになった。これは山頂が近いと思ったが更に先にピークが見えていた。ここでも四郎峠にあった「十條製紙」の赤い標識が立木に打ちつけてあった。ここでひとつの仮説が頭の中をよぎった。この今歩いている幅の広い道は実際は道ではなく、境界線ではないのだろうか ?。そしてこんな道は軽井沢の山を登ったときにも、野球球団も経営する某大企業の土地の境にもあった。これは境界線で「東電」あるいは「十條製紙」が管理しているのではないだろうか ?そしてこの境界線は防火帯にもなっているのではないか。そうすれば常に人の手が入っていても不思議はないはずである。
そんな事を考えて、最後の登りに汗を流すと燕巣山の山頂に到着した。山頂でこの素晴らしい道は途切れていた。あとは一面笹薮となっていたが、展望は四郎岳よりもはるかに素晴らしい。そして紅葉した大きなダケカンバの木がなんともその山頂に映えていた。山頂には達筆標識があり、MLQの書き込みがあったので、ここでも真似をして私も書き込みをして置いた。
ここでも5エレ八木をセットして430Mhzで運用したが、電波の飛びは今ひとつだった。結局2局とQSOしただけだった。その分ゆっくりと食事を楽しむ事が出来た。
帰りは鹿の糞の事もあり、慎重に下った。そして沢の下りでは、滑るものだから更に慎重に歩かざるを得なかった。
それにしてもこのルートを発見したIJMは凄いと思う。何しろコースタイムを見るとルートを探していた筈なのに、私よりもはるかに早いことが物語っている。(私が遅すぎることもあるのだが・・・)。それにこのルートを登っての詳細なガイドとなる文章は、MLQのもので完成されたと言っていいだろう。それが証拠に私は全くルートを外さなかったのだから。まさにガイドブックにも、地図にも記載されていないこの道はYAMAルーム御用達の専用登山道と言ってもいいだろう。
「記録」
丸沼温泉06:36--(.16)--06:52最後の砂防ダム--(.10)--07:02左の尾根へ--(.10)--07:12沢に下りる--(.02)--07:14右の沢に入る--(.02)--07:16左の尾根へ--(.24)--07:40四郎峠07:49--(.58)--08:38四郎岳09:55--(.22)--10:17四郎峠--(.12)--10:291891m峰10:39--(1.07)--11:46燕巣山13:15--(.38)--13:53四郎峠--(.41)--14:34丸沼温泉
群馬山岳移動通信/1995/