骨が折れたかな?「高妻山」「乙妻山」 登山日2006年8月5日
3年前に戸隠山を登ったときまで、高妻山の存在は意識したことはなかった。戸隠山から見る高妻山はピラミダルな山容で、登高欲が湧いたのだがその時はあまりにも高妻山は遠くに見えた。 深田久弥さんは日本百名山で「ようやく頂上に達して私の喜びは無上であったが、もう乙妻まで足を伸ばす元気はなかった」と記している。交通の便が発達しているのだから、乙妻までの日帰り往復はそれほど困難とは思われなかった。 8月5日(土) 午前2時に自宅を出発、上信道を信濃町ICで降りたがコンビニがない。仕方なく国道18号までコンビニを探しに思わぬ寄り道をすることになった。それでも戸隠牧場には4時半頃に着いたのでほぼ予定どおりだった。しかし眠い!!目を閉じるとそのまま眠りに吸い込まれそうだ。少しだけ運転席で目を閉じた。戸隠牧場の駐車場は登山者用として充分なスペースがあるが、今日は登る人が少ないのだろうか。動きのある車は2台ほどだ。いつまでもウトウトしているわけにも行かないので、出発の準備をする。汗っかきの私は、夏山にはどうしても水が必要だ。スポーツドリンク1.5リットル、0.5リットルのペットボトルに入れた水は凍らせて持ってきている。合計3リットルあれば何とかなるだろう。 牧場の柵を抜けて中にはいると牧草地の中に道が延びていた、なだらかな斜面に広がる牧草地の中の道は直線的で気持ちがいい。その牧草地を過ぎると心地の良い林の中に入る。朝の空気はひんやりとして、肌寒く感じるほどだ。それに沢沿いに歩く道は、それだけで安心感がある。それは水の補給が容易な事によるのかも知れない。何度か沢の徒渉を繰り返すと、徐々に水量も少なくなり、高度も上がってくる。それとともに背後に昇ってきた太陽が高度を上げて沢の中に差し込んできた。それとともに気温が徐々に上昇してくるのが分かる。 鎖が下げられた滝が現れ、沢を離れて左側を昇るとその次は岩場のトラバースとなっている。不思議に思うのはこのトラバースの鎖の付け方だ。1m程度の鎖が一定の間隔でぶら下がっているのである。足場が濡れていたり凍結した場合は、この鎖を頼りにするしかないのだが、利用するならばターザンのように鎖の下端に掴まって移動する事になる。慣れていない人はとまどうのではないだろうか。この大洞沢の道は戸隠山からの帰路に下降しているので、記憶がのこっている。このトラバースを過ぎると、最後の水場となっているはずだ。ゴーロ状の沢を詰めると記憶の通り水場が現れた。薄汚れたコップが置いてあったので、ちょっと遠慮して手ですくって水を飲んだ。冷たい水は心地よくのどを通過して行った。 水場を過ぎると、沢沿いの爽やかさは消えて暑苦しい登りとなった。こんな時はなにも考えずに登るのが得策だ。笹丈が低くなり鞍部に到着すると、そこが一不動避難小屋だった。避難小屋はひっそりとして、扉は閉じられていた。特に休む必要もないので、立ち止まっただけで、そのまま高妻山に向かった。高妻山への道はいきなりの急登になったが、そこに咲く花に思わず足が止まってしまうことがしばしばだった。シモツケソウ、タカネナデシコ、クガイソウ、ミヤマシャジン、昔覚えた名前を必死になって思い出そうとするのだが、なかなか思い出すことが出来ないもどかしさを感じた。徐々に高度を上げていくと、眼下に戸隠牧場がそして対峙する飯綱山が青いシルエットで大きく見えていた。いつかはあの飯綱山に登りたいものだと、その山容の大きさに見とれてしまった。このあたりから見ると、高妻山は稜線を大きく左に曲がったところにあり、ピラミダルな山容は近寄りがたい迫力を備えていた。 ここからは変化のないアップダウンを繰り返しながら登ると言うよりも、下降気味に進んでいく。気温はここに来てかなり上昇をはじめていた。今回はタオル地で出来た頭巾を持ってきた。後頭部への日射しが遮られて快適である。また額の汗が止められるので、顔を拭く煩わしさから解放されるのである。それに凍らせておいた300mlのスポーツドリンクを首筋に巻き付けた。するとその効果は覿面で体温が下がって来るのが実感できるほどだ。 八薬師のあたりで休憩をとることにした。実はここが八丁ダルミと思っていたのだがそうでもなさそうだ。この後に九勢至があり、その先の鞍部が八丁ダルミであったのだ。ともかく休んでいると、いきなり3人に追い越されてしまった。まあ仕方ない、久しぶりの山行であるこれ以上のスピードアップは出来そうにない。首筋に巻き付けておいたスポーツドリンクが溶けだしてきたので、それを飲んだ。 休憩後に一気に山頂を目指して出発だ。歩き始めると、すぐに九勢至があり、目の前に大きく立ちふさがった高妻山の本峰が、覆い被さるように屹立していた。ここを登るのかと思ってため息をついてしまった。この九勢至はちょっとしたビューポイントで、先ほど追い越された3人が休憩をしていたので、再び追い越すことになった。最低鞍部は八丁ダルミで、谷筋に白く雪を蓄えた北アルプスの峰々が遠望できた。この時間になってもこの展望とはとてつもない良い天気だ。心地よい風の通り道でもあるこの鞍部は、縦走路の息抜き地点である。 さてここからは一気に山頂を目指さなければ、気力が萎えてしまいそうである。そのためにもゆっくりと息を整えながら歩く。道は雨水でえぐられて溝になっており、石がゴロゴロしているところもある。急傾斜になってくるとその岩がかなりの負担になってくる。それに落石にも注意しなくてはならない。帰りの下降を考えると憂鬱になってくることも事実だ。そうしているうちに、若い単独行者に追い越された。そして見る間に視界から離れていった。やはり若い人は素晴らしいと思った。 森林限界が近づき、傾斜が緩くなってくると山頂に近づいた様な気がする。自然にスピードが速まってくる。行き着いたピークは露岩で石祠があり十阿弥陀の大きな文字と鏡が置いてあった。山頂はさらに先で、露岩の上を伝って100mほど行くとそこが山頂だった。途中で追い越された若者を含めて5人が山頂でくつろいでいた。 山頂からの展望は素晴らしく、360度遮るものがないのである。浅間山、富士山、八ヶ岳、北アルプスと飽きることがない。目を北に転ずれば、雨飾山、焼山、火打山、妙高山が間近に見える。その手前の乙妻山は高妻山と違って優しい山容で横たわっている。こうやってみると、このふたつの山は対をなしていると感じられる。やはり登らなくては。しかし、疲れていた事は事実で、それが証拠に目を閉じるとスーッと眠りに吸い込まれそうになる。それにしてもこの山頂は一人の登山者が、しきりに山の解説をしているので賑やかで落ち着けない。乙妻山方面に少し進んで、岩場の上でゆっくりすることにした。ここからの展望も素晴らしく、イワギキョウが揺れる岩場は快適だった。しかし、座っていると睡魔が何度となく押し寄せてきた。 一瞬なにが起こったのか理解が出来ない。しかし、ザックのショルダーベルトに付けたポケットに入れておいたカメラが、左胸を強打して大きな痛みが走った。それと同時に足の太ももが痙攣して動けなくなってしまった。なんとか時間を掛けて起きあがった。徐々に歩いてみると何とかなる。しかし、胸の痛みは息をする度にキリキリと何かを差しこまれたように感じる。「どうしようか、ともかく乙妻山に行こう」この時点でなんとバカなことを考えたのだろうと思った。しかし、それはもうここには来たくないし、時間はたっぷりとあるし、天候も安定しているのである。 そこで再び歩き出すが、何かが変だ。そうだ、メガネがない!!先ほどの転んだところに戻ったが、なかなか見つからない。これは困ったぞ、メガネがなければ下山にも苦労することになる。頭が倒れた部分の笹藪を探すと、根本の部分にメガネのレンズがが光って見えた。このアクシデントで10分近くロスをしてしまった。笹藪は依然として続き、時には笹藪のトラバースとなるのだが、左腕が思うようにならない。笹に掴まりながら進むのだが、あっけなく手が笹から離れて、斜面を滑るのだ。ひょっとして最悪の状態なのかも知れない。そうすれば帰るのが正論なのだが、今の自分はおかしいと思いながらも前に進んだ。ふと、腕を見ると擦過傷が両腕にあり、血が滲んでいる。かなりの衝撃だったに違いない。 乙妻山の直下の鞍部は雪田が残っていた。笹藪も無くなり、草地が広がっていた。雪解け水は心地よく流れており、充分な水分補給をおこなった。いつしか用意した3リットルの水は残りわずかになっていただけにありがたい。それに両腕の傷口も洗い流しておいた。途中ですれ違った人が、ここに熊の足跡があったと言うが、それらしき痕跡は見あたらなかった。
去りがたい大展望の山頂だったが、帰りの時間を逆算すると、12時までにはここを発たなくてはならない。それからの帰路は苦難と痛みの道となった。 後日、整形外科の門を叩いたのは言うまでもない。 「記録」 戸隠牧場04:57--(1.31)--06:28一不動避難小屋--(1.08)--07:36五地蔵山--(.36)--08:12八薬師08:22--(1.07)--09:19十阿弥陀--(.05)--09:24高妻山山頂10:14--(.06)--10:20トラブル10:27--(.20)--10:47鞍部(雪田)11:03--(.20)--11:23乙妻山11:43--(1.04)--12:47高妻山12:59--(1.32)--14:31五地蔵山--(.46)--15:17一不動避難小屋--(1.03)--16:20戸隠牧場 群馬山岳移動通信/2006 |
この地図の作製に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50メッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平16総使、第652号) |