登り残していた「的岩山」
登山日2001年5月12日
5月12日(土) 本当に久しぶりに山に向かった。何しろ家庭の雑務に追われて、挙げ句の果てに最近では膝に痛みを感じるようになってしまった。平地を歩くのと登りは何とかなるのだが、下りはとてつもない辛い痛みが走るのである。こうなってくると、いろんな気力も失せてきてしまって、山に対する情熱もなくなってくるから不思議なものだ。それでも最近はその膝も何とか痛みがなくなってきたので、山に向かう意欲が出てきたのである。 膝に爆弾を抱えた以上、あまり無理は出来ないので、とりあえず登山道のしっかりした山を選んだ。そこで、日本100名山のひとつである「四阿山」の途中にある「的岩山」に登っていなかったので、この山に登ることにした。もちろん、四阿山にも登れるかも知れないと言う期待をもっていた。 鳥居峠の駐車場に車を止めて、車の中に散在している山道具をザックに詰め込んだ。なにしろ私の車は山道具の保管場所と化しているから、たいていのものは引っかき回せばあるはずである。もう大丈夫と思って、数歩を歩き出したら、さっそく「スパッツ」、さらにはカメラの三脚を忘れて戻る羽目になった。 再び仕切り直して歩き出す。林道を封鎖しているゲートの横を抜けて、未舗装の林道を進む。しばらく歩くと林道の脇に「四阿山」への標識が見えた。林道はそのまま続いているのだが、その標識の示す方向の道は笹が生い茂り、なにやら往来が無いようにも思われる。地形図を見ると林道を辿っても、登山道を辿っても差はなさそうだ。とりあえず笹原の中に続く登山道に足を踏み入れた。 笹は思いのほか深く、腰元が隠れる程のところもあった。しかし、幸いにも朝露が無く濡れることはなかった。これが降雨の後だったら、ずぶ濡れになることは間違いなさそうだ。しかし、深田百名山であるこの山が、こんなにも人の気配が無くて良いのだろうか。「もしかして道を間違ったかな?」と不安に駆られながらも先に進んだ。 ほどなく、左側に的岩山の方向を示す標識があらわれた。見ればそこは笹に覆われ道の様子は伺うことが出来ない。地形図を見ると、ここから的岩山には、標高差220mを登らなくてはならない。それに較べて四阿山の方向から下り、的岩からならば標高差はほとんど無い。足の調子も悪くないので、ひとまず四阿山に登ることに決めた。 その分岐を過ぎてわずかに歩くと林道に飛び出した。おそらく歩き始めた時の林道がここまで来ているのだろう。帰りはこの道を辿って帰ろうと思った。その林道を10分ほど歩くと、道は終点となり広場となっていた。そしてそこは的岩経由で四阿山に向かう道と、花童士の宮経由で四阿山に向かう道の分岐にもなっていた。帰りは当然、的岩経由になるので、登りは花童士の宮からに決めた。 道は芽吹きがこれから始まりそうな気配のある、カラマツの林の中をゆっくりと登っていく。空気が乾燥しているので、汗もべとつかず快適な皐月晴れの山歩きとなった。20分ほど歩くとカラマツの林を抜けて尾根の飛び出した。そして眼前には残雪を残す浅間山を中心とする大展望が広がっていた。最近の浅間山は噴煙の量が増えており、活火山としての本来の姿となっている。 尾根の道は実に快適な登りとなった。常に浅間山を右に見て、高度を上げる度に左にはアルプスの白い山並みが、振り返れば鳥居峠から湯ノ丸山、そして八ヶ岳が青空の下に広がっていた。 花童士宮跡には東屋があり、雨の日には活用出来そうだ。そばには花童士宮の説明板があり、その裏には朽ち果てて倒壊した宮の残骸がいまでも残っている。そして、1956mの標高点を過ぎる頃から、残雪が現れるようになった。今年は残雪期の山歩きを逃してしまっていたので、雪の上を歩くとちょっと気分が高揚した。 歩きはじめてからすでに2時間が経過している、そろそろ休憩をとらなくてはならない。そう思って適当な場所を見つけていると、なにやら話し声が聞こえてきた。近ずくと中年の男女4人のパーティーが休んでいた。やはり休む場所は似通っているものなのだ。軽く会釈をしてその場所を通過した。その先にもすぐに露岩の展望が開けた、休憩に適した場所が現れた。 腰を下ろして、大福を頬張って眼前の大展望を楽しんだ。今のところ心配した膝の痛みは問題ない。これならばなんとか四阿山の山頂まで持ちこたえることも可能に違いない。空は澄み渡り天候の不安も全くない。 休憩後歩き出すと、すぐに2040m峰に着いた。ここにも東屋があり、道は的岩方面からの道と合流している。帰りはこの道を辿ることになり、眼下には的岩山が尾根上のコブの様に見えていた。さて目指す四阿山は、ここからは見えない。一旦鞍部に降りて2144mの標高点に向けて砂礫の急坂を登り返すことになる。急坂といっても白銀に輝くアルプスの展望を眺めながら登ると、あっという間に登り切ってしまう。 2144mの標高点からは樹林帯に入り、残雪も豊富になってきた。しかし、持参したスパッツもアイゼンも使うほどではなかった。夏道はほとんど分からなかったが、時折あらわれる階段がその存在を教えてくれる。上部に行くに従って疎林となり、気持ちの良い雪原となった。快適にステップを切りながら登ることは、気分が晴れやかになるから不思議なものだ。 白い雪原の向こうに青空が広がり、やがて菅平牧場の道と交わる地点に着いた。なんとすべて木の階段で覆い尽くされて、山頂まで土の上に足を置くことなく歩くことが出来る。素晴らしい道が造られていた。その階段を登りきると細長い地形の四阿山山頂にたどり着いた。山頂からの展望は360度遮るものもなく見ることが出来る。何度何度も身体を回転させてその展望を楽しんだ。 山頂には既に単独行の登山者が2名休んでいた。そこで南峰の頂に腰を下ろして、噴煙が立ち上る浅間山を眺めながら缶ビールを開けた。何という贅沢な時間なのであろうか。静かな山頂では、イワツバメが空気を切り裂きながら飛翔する音がハッキリと聞こえる。山頂で約1時間を過ごしても、まだ11時前である。近くにある根子岳が気になるが、爆弾を抱えた膝が気になるのでこのまま下山することにした。 登るときに通過した2040m峰に到達してから、ゆっくりと的岩に向けて下りはじめた。とにかく下るときの方が膝に負担がかかるからだ。道は花童子宮経由の道にに較べて、急坂となっており、こちらを登る方が負担が多いと感じた。まして灌木に遮られて展望も少ないからだ。 30分も歩くと目の前に大きな岩が出現した。これが的岩で大きな穴が一部に開いていた。そして岩全体は屏風を置いたように、100m近くも一定の厚みで連なっていた。その光景に見とれながら岩の基部を歩いた。しかし、地形図に記されたような、県境に沿って付けられた道を見つけることは出来なかった。道は岩から離れてどんどん下ってしまうのである。藪の中に入るのもちょっと嫌らしいので、その下に向かう道を歩いてみた。 すると前方から親子連れが歩いてきた。お父さんと小学校入学前の男の子である。 「すみません、岩がある場所はまだ先でしょうか?」父親が聞いてきた。 「的岩ですか?」 「.....」 「的岩ならそこに見えているのがそうですよ」 「あと何分くらいですか?」 「....見えているから5分くらいでしょう」 何か訳の分からぬ問答を繰り返して、そのまますれ違った。 さて、こちらは道が分からずに苦労しているのである。ともかく県境稜線に戻らなくてはいけない。適当なところで踏み跡があったので、それを辿って再び県境に登りあげた。すると赤テープが目に入ったが、道は見られない。もうほとんど廃道となっているのかも知れない。県境に沿って土が盛ってあったので、それに沿って歩くのだが笹藪がひどくて困難を要した。ところどころ踏み跡が残されており、かろうじて道をたどることが出来た。 さて的岩山であるが、地形図を見ると三角点の位置は山頂から100mほど南にある。三角点の標高は1746m、山頂は1750mの等高線に囲まれた部分だ。ともかく一番高いところを踏んで置いて、次に三角点を捜すことにした。一番高いと思われる場所は、雑木が密集して、標識らしきものも見あたらず、展望も全く得られなかった。そして三角点を捜すと、雑木が刈り払われた原にそれこそポツンと無造作に設置されていた。傍には松の木があったが、あまり目立つ存在ではなかった。ともかくその三等三角点の横に腰を下ろして、しばし休憩して過ごした。無線の方は全く芳しくなく、携帯電話で連絡を取って、430MHZに引っ越してやっとの事で奥の手QSOを成立させた。 それにしても静かな山域で、深田100名山となっていることが嘘のようだった。的岩山からは再び笹藪に入り下山、こんどは林道経由で鳥居峠まで歩いた。心配した膝の痛みはそれほど悪化せず、なんとか歩き通せた。この分なら、もう少し行動が出来るかも知れない。 「記録」 鳥居峠06:24--(.42)--07:06的岩山分岐--(.04)--07:10林道--(.10)--07:20的岩分岐--(.37)--07:57花童子宮跡--(.30)--08:27休憩08:36--(.04)--08:40 2040峰--(1.01)--09:41根子岳分岐--(.05)--09:46四阿山山頂10:50--(.45)--11:35 2040峰--(.27)--12:02的岩--(.19)--12:39的岩山山頂12:57--(.11)--13:08登山道--(.03)--13:11林道--(.25)--13:36鳥居峠 群馬山岳移動通信 /2001/ |