点滴を取り付けてポーズ

イレウスで初めての手術

(専門用語におかしい所があるかも知れませんがご了承ください)

2004年3月6日(土)

 朝起きてみるとどうも体の調子が良くない。便は通常に出たが、食欲がなくどうも吐き気がある。起きたてと言うのに再び布団に入った。何となくウトウトしながら時間が過ぎていく。昼食はもちろん食欲がなく牛乳を少し飲んだが、すぐに嘔吐してしまった。これで少し楽になると思ったら、さらに激しく嘔吐してしまった。これは尋常ではないとおぼろげながら自覚してきた。妻は仕事で不在だったので、春休みで家にいた子供が心配して、病院まで運び込まれた。

 やがて診察を行い、レントゲンの映像を見ながら医者が「腸閉塞(イレウス)ですね。即刻入院してください。」ガ〜〜〜ン!!!「入院ですか?」「これを見てください。小腸が閉塞して行き場のなくなった胃液や胆汁がこんなに溜まっています」見れば閉塞部分の手前の小腸は膨らんでパンパンに腫れ上がっている。「閉塞の原因はこれからまた検査します」

 とりあえずCTで断層撮影を行う。次に鼻孔からイレウスチューブを小腸まで挿入、小腸内に溜まった腸液を取り出す。ところがこのイレウスチューブの挿入がとんでもない苦痛、「痛い」「苦しい」「不快感」の三拍子が揃っている。レントゲンの画像を見ながら何とか閉塞部分まで挿入、やはりその先にはイレウスチューブが挿入出来ないようだ。結局このイレウスチューブは暫く差し込んだままの状態となった。

 腸閉塞の有効な処置として高気圧酸素療法がまず行われた。棺桶の大きさのガラス張りの容器の中に入れられる。静電気による火花での火災が怖いものだから、静電気対応の服に着替え、アースを取り付けて仰向けになった状態で中に入る。狭い空間の中に押し込められてじっとしているのは大変だ。やがて加圧に取りかかる。とにかく耐え難いほどの耳の痛みが襲ってくる。唾を飲み込めば良いと言われるが、唾を飲み込もうとすると喉を通っているイレウスチューブが動いて痛い。結局は2気圧の状態に持ち込むのに15分も掛かってしまった。それからこのまま60分保持されるのだが、この時間の長いことと言ったら。「テレビでも見てゆっくりしてください」と看護師に言われたが、とてもそんな余裕はない。やがて60分後に常圧に戻る作業に移るが、これは減圧症を防ぐためにゆっくりと15分くらい掛けて行う。これがまた待ち遠しい。結局90分間を費やして外に出たときはホッとした。ところが再び激しい吐き気に襲われて嘔吐、茶色い液体を大量に吐き出した。

 病室に戻ると妻が駆けつけていて、すでに担当の医師からの説明を受けていた。高気圧酸素室から出たばかりで、ヘロヘロになって車椅子で戻ったものだからビックリしている様子だった。ベッドに横になり早速点滴が開始され、小腸まで挿入されたイレウスチューブは吸入器につながれて定期的に減圧されて溜まった液を吸いだした。

長い時間がこの時から始まった。

手術前で目がうつろ
3月8日(月)

 これまでの3回の高気圧酸素療法の効果が表れないので、開腹手術となることが決まった。担当医師によると、「閉塞部分は液体が少しは通るものの、固形物は全く通らない。閉塞部分がどうなっているのかレントゲンやCTでははっきりわからない。糸状のものが絡まっているようにも見えるし、捻れているようにも見える。腫瘍なども考えられるが開けてみればハッキリするでしょう。」手術はなにしろ初めての経験、不安感でいっぱいだ。しかしこの状況ではそれしか選択の余地はない。

 手術前というのはいろいろなセレモニーがあるものだ。血液の凝固能測定とか全身麻酔のためのチェックなどだ。しかし一番恥ずかしいのは下腹部の剃毛で、女性看護師が機械的にやってくれるのだが、やはり抵抗感は払拭できない。ヘソのゴマまで取られてしまって準備は完了だ。口髭はやはり酸素マスクをするのに邪魔なので自分で剃ることになる。このころになると心配していろんな人がやってくる。遠隔地から娘がやって来ると思わず目頭が熱くなってしまった。


3月9日(火)

 手術当日の朝は不安感いっぱいである。予定は15時頃であるがなかなか落ち着かない。入院したときから付けられた、鼻孔から小腸に入れたイレウスチューブがやはり気になる。なにしろ唾は飲み込めないし、声も思うように出せない。左腕に付けられた点滴はそのままで、寝返りが思うように出来ないものだから背中が痛くなってきている。しかし、この点滴の効果は絶大で食欲は全く起こらないし、喉の渇きで水を飲みたくなることも皆無だ。

 いよいよ手術の時間が近づいてくると不安は最高潮になる。出来ることならば逃げ出したくなるところだが、今は囚われの身も同然でジタバタ出来るはずもない。いつお呼びが掛かるかも知れない、死刑囚の気持ちがよく解る。

 そして看護師がついに呼びに来た。ベッドから手術室用のランチャーに移されて、長い廊下を行く。天井の蛍光灯がやけに眩しいと感じた。廊下には心配してやってきた身内が並んでいた。まあ泣くわけにも行かないから、右手の拳を高く上げてガッツポーズで手術室に入った。

 手術室に入るとなにやらニューミュージック系の音楽が流れて別世界のようだ。「気分はどうですか?寒くありませんか?」などと看護師が声を掛けてきた。まあそんなことはどうでも良いことなのだが、「気分は悪くありません」と答えた。やがて映画に出てくるような丸いライトに照らされた手術台に寝かされた。そして全身麻酔用のマスクを付けられ、その中に白い霧のようなものが入ってきた。その霧を吸い込んだ途端に意識が薄れて行った。

..........................

 「終わりましたよ」
 「ご苦労様でした、お疲れさま、うまく行きましたよ」
 看護師のその声で意識が戻ってきた。しかしそれと同時に耐えきれないほどの痛みが襲ってきた。「痛い!!!」意識が朦朧としている中でその言葉を繰り返していた。頭の周りでは女性看護師が忙しく私の術後の処置を行っていた。そして「すぐに痛み止めを打ちますから待ってください」と言った。「早く痛み止めを!!!」苦痛に耐えながら、イレウスチューブが入ったままの喉から声を絞り出した。

 (手術は15時半から始まり、終了は18時頃だったようだ。心配された小腸の壊死がなかったために、切除はしないで捻れを修正しただけだった。それに腫瘍もなくまずは一安心と言ったところだ。)

 やがて痛み止めの注射を肩に入れて貰った。暫くすると痛みは嘘のように消えていった。しかし身体を動かすと痛みは腹部を中心に走り回った。左腕は点滴のチューブが取り付けられ、尿道バルーンのチューブがだらしなく股間から垂れ下がり、鼻孔には相変わらず小腸までのイレウスチューブが差し込まれ、その上からは酸素マスクがあてがわれている。ハッキリ言って身動きが全く出来ない状況になっているわけだ。動かせるのは膝を立てたり伸ばしたりするくらいである。

 徹夜で看病した妻によれば、痛み止めを打ってから15分程度でその効果が効きはじめ、3時間くらい持続。その間は鼾をかいて眠り、咳き込んでから目を覚まし痛みを訴えたそうです。そうすると再び痛み止めを打ち、眠るといった事を繰り返したようです。

 長い夜を痛みとともに時間を過ごした。
手術後格好だけはVサイン

3月10日(水)

 朝になるとどうしても口に付いている酸素マスクが息苦しくて気になって仕方ない。時折外しては新鮮な空気を吸い込んだ。痛み止めは夜4回打っただけで、朝からは打たなくなっていた。10時頃担当医師の回診があり、その時になってやっと酸素マスクと5日間差し込まれていた鼻孔からのイレウスチューブが外された。口に付いているものが外されただけで気持ちが本当に楽になった。

 15時頃今度は尿道バルーンが引き抜かれた。これでやっと自由に尿が出せることに喜びを感じていた。腕についている点滴用のチューブだけが体に自由を奪うものとなった。腹の痛みは寝返りをするたびに激痛が走った。しかし、寝返りをして体位を変えなければ背中の痛みが増して耐え難い苦痛となる。困ったのは痰が喉に絡んでしまったときだ。咳払いをして痰を切りたいのだが、それをすると腹に力が入り激痛が走る。そんなものだから我慢するのだが、たまに咳き込んでしまう事がある。こんな時はどうしようもない。看護師に聞くと「腹を押さえろ」と言うが、腹を押さえれば傷口を触るようなものでそれも出来るものではない。

 18時頃になって尿を出したくなった。しかし、歩かなくてはダメだと言うことで尿器はベットに置かれていない。自分でトイレに行くしかないのである。起きあがろうとしたが腹に力が入らないので起きあがれない。それもその通りで腹筋を切断してあるのだから無理もない。こんな時にかぎって、もうみんな帰宅してしまって傍には誰もいない。15分ほど苦しんでもがいたが、ついにベットから起きあがれない。「もうダメだ」看護師を呼ぼうと思った。その時に都合良く義弟が訪ねてきた。「助かった!」義弟の手を握ってなんとか起きあがる事が出来た。

 念願のトイレの前に立って感激だ。ところが尿を出そうとしたが尿道が痛くて尿が出せない。尿道バルーンを引き抜いたときに尿道が傷ついたのだろう。出そうとすると激痛が襲ってくる。しかし膀胱はパンパンに張っている。15分ほど脂汗をかきながら便器の前に立って見たがついに断念した。再びベッドに戻り寝ようとするのだが、これがまたひと苦労。ベッドの頭の部分を起こして、それに頭を付けてゆっくり倒していくのだ。寝ころんでも頭の中はパニックだ。このまま尿が出せなかったらどうしよう。

 しかし、どうしても我慢できずに再び挑戦。今度は義弟の首にしがみついて起きあがったら、比較的楽に立ち上がれた。再びトイレの前に立ったが激痛は相変わらず。それでもなんとか頑張って少しだけ出すことが出来た。それだけでもなんとか楽になった。

 再びベットに横になったが、やはりすっきりとしない。いつまでも義弟の世話にはなれないので、自分で起きあがる事にする。頭の部分をゆっくりと起こして身体を起こしていく。痛いのを我慢してなんとかベッドに座る事が出来た。そして再びトイレに向かう。激痛は相変わらずだが、時間を掛けて何とか膀胱内の尿を出すことが出来た。

あ〜〜〜〜!すっきりした。
日常の何でもないことが、こんなに大変とは思わなかった。
看護師に話すと「もう一度カテーテルを入れますか?」「とんでもない、正気で尿道にカテーテルなんて」ありがたく辞退した。


3月11日(木)

 医師の指示で「昼間はベッドに横になるな歩け」と言われてしまった。動かないと再び癒着が起こってしまうと言うことだ。仕方なく移動式の点滴台を持って病院の廊下を歩くことになった。横になるなと言ってもそれは無理な話で、せいぜい2時間が限度だ。(結局このリハビリは退院まで続けた)

 朝の回診で水をコップ2杯まで飲んでも良いとの許可が出た。それは薬を飲むためで余分には飲まないようにと釘を刺された。しかし、6日ぶりの水の喉ごしの感触は心地よいものだった。


3月12日(金)

 この日の夕方からおもゆが出された。それに水分は自由にとっても良いとのことである。期待していたが所詮おもゆである。飲み込んで終わりとなってしまった。

3月14日(日)

 夕食より3分粥になる。「おお!久しぶりの米だ」しかし、あっという間に終わってしまった。医師に言わせればそれでも「残せ!」と言う。「先生、それは無理だよ」「そうか」と笑って言った。

 それよりもうれしかったのは、この時より夜の点滴が無くなったことだ。眠るときに腕に何もついていないのは実に楽である。トイレに行くのも楽になったし、順調に回復しているのが自分でもわかった。


3月15日(月)

 抜糸を行うが、ステープラ20本はまだそのままだ。(ステープラはホチキスの針そのもの)腹部に挿入された20センチのドレインチューブを3センチほど引き抜いてカットした。引き抜くときは何とも言えない不快感が腹部に起こる。

焼き鮭の切り身に感動
3月16日(火)

 夕食より5分粥となる。ここで初めておかずとして焼き鮭の切り身が出た。うまい!!鮭の小骨をしゃぶり、皮も全部食べてしまった。ドレインチューブ5センチカット。


3月17日(水)

 点滴が昼間2本だけになった。ステープラ6本カット。ドレインチューブ5センチカット。


3月18日(木)

 ドレインチューブを全部引き抜く。夕食より全粥食になり、量が多くなり一部を残した。


3月19日(金)

 ステープラをすべて外す。開腹した13センチの傷口は完全に閉じたようだ。この日から病室を一般病室に移動。展望の良い病室で開放感に溢れていた。


3月24日(水)

 退院が26日と決定した。それを前に風呂に入ることが出来た。身体は毎日拭いていたので思ったほど汚れは出なかった。しかし髪の毛はやはりシャンプーをすると気持ちがよいべっとりしていたものが、ふっくらとしてくるから気持ちがいい。


3月25日(木)

 退院前に胃カメラを呑んで行けと言う。あまり好きではないが病院では逆らうわけにはいかない。しかし、呑んでみると十二指腸潰瘍が発覚してしまった。とりあえず投薬で何とかなるようなので退院は変わらないので安心した。

退院日の朝食もおかゆだった退院祝いのケーキ(病院では出ませんよ、念のため)

3月26日(金)

 いよいよ退院である。

 靴を履いて試しに床屋まで歩いてみた。ところがうまく歩けない。雲の上を歩くようでもある。足首がうまく動かないのである。これは本格的にリハビリをしないとダメだと思った。退院してからが本当の苦闘の始まりであるとつくづく思う。


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 今回の入院で、何でもない日常が本当にありがたいことだと実感した。山歩きをしたり農作業をしたりすることが、どんなに幸せであるか。

入院中に読んでいた五木寛之さんのベストセラー「大河の一滴」と言う本の一文が心に響いた。要約するとおおよそ次のようなものです。

 アイオア州立大学のディットマーと言う人が面白い実験をしました。30センチ四方で深さは56センチ程度の木箱に砂を入れて、一本のライ麦を植えます。水を与えながら数ヶ月育てますが、苗は当然弱々しく、ひょろひょろとして貧弱なライ麦が育ちます。そのライ麦の砂をふるい落として、そのライ麦を支えるために張り巡らされた根を計測します。目に見えるものはものさしでで、目に見えない根毛は顕微鏡で見て測定します。その結果計測の合計はなんと1万1千2百キロメートルだと言うのです。はじめはその数字は誤植かとも思えました。実にシベリア鉄道の1.5倍にもなるのです。(地球の直径は約1万2千7百キロメートル)貧弱なライ麦でさえこれだけの根で支えられているのです。人間はどうでしょうか。一人の人間の命を支えるために、どれだけの命が犠牲になっているのでしょうか。貧弱に育ったライ麦に「背丈が低いじゃないか」「色つやが良くないじゃないか」と悪口を言ったり非難する気にはなれない。よく頑張ってそこまで伸びてきたな、良くそこまでその命を支えてきたな、とそのライ麦の根に対する賛嘆の言葉を贈るしかない。

 今回の入院では多くの人に支えられて来ました。


群馬山岳移動通信