いのちのおもみ
雨の中の収容

9月20日夜、職場山岳部から緊急連絡、召集がかけられた。
当日「谷川岳笹穴沢」に入渓した我々山岳部のメンバーが遭難、一人が滑落して死亡したらしいとのことだった。
早速、集合場所である部長宅に向かう。
そこで、事故の内容について報告を聞く。
計画書によると、川古温泉から赤谷川に沿って進み途中から金谷沢に入り、笹穴沢を遡行して平標山に至るものである。パーティーは5名でそのうちのK君がナメ滝で滑落死亡したらしい。メンバー二人がK君に付き添って沢でビバーク、残りの二人が平標小屋に向かい救助を依頼したとのことだ。

我々の出発は翌日の5時と決まった。

眠れぬ夜を過ごし、集合場所に向かう。メンバーは10名、3台の車に分乗して新治村駐在所を目指す。

駐在所で打ち合わせ後、谷川岳警備隊と共に元橋から林道に入り、登山口に到着した。
現地では既に新治村山岳会による作業が始まっていた。

7時28分登山道を登り始める。一緒に登った若いメンバーは30分で小屋に到着。
我々のようなロートルはそれからさらに30分遅れで小屋に到着した。
小屋の前には、事故を起こしたパーティーのメンバー2名が目を真っ赤にして立っていた。
ともかく2人は無事だ。
昨日の状況について報告を聞く。
目の前で滝壺に消えていく仲間の様子を話すのも、聞くのも辛い事だ。

現地で作業している救助隊の様子は、刻々と無線で連絡が入ってくる。
作業は大変な困難を呈しているらしい。

ザイルが足りない。我々のザイル2本を託す。
まだ足りない。
登山口の車にまだ3本ある。取りに行こう。
メンバー2名が向かう。
そしてザイルをもって、身体から湯気を立てながら戻って来た。
若い我々のメンバーの一人がザイルとおにぎり18個を持って現地に向かう。

ザイルがすべて繋がってルートができあがった。

やがて現地でK君に付き添って一晩過ごしたメンバーが、そのフィックスロープに頼って登ってきた。
2名とも予想以上に元気だ。良かった。
現地の位置関係がガイドブックの概念図と大きく違うことがここで再確認できた。
おおむね概念図とはそう言うものだが、こんな時は救助隊に誤った位置を知らせることになり、今回のようにザイルが不足する事態になる。

我々の食料が足りない。登山口についた新たなメンバーに食料の運搬を依頼した。
届いた食料で腹を満たし、ひたすら待つ。

 待つ。
    待つ。

やがて下から連絡。100メートルのフィックスロープの先端に遺体を固定するから滑車を使って引き上げろとの指示だ。

14時51分ロープによる引き上げ開始。
警備隊員2人、山岳部員12人、一般登山者1人、総勢15人に引き上げたが、その重さといったらとんでもない重さだった。
10回も引くと、握力が無くなり、腕の力がなくなり、やがて動かなくなる。
それでもまだ数メートルしか引き上げられない。

人の重み、そしてその引き上げる距離の長さ、これはとてつもないものだ。
そしてそれよりも命の重さは、さらに重い。

21分かかってやっと稜線まで引き上げ終了。K君は我々と対面することができた。
線香を焚き、手をあわせると止めどもなく涙があふれた、
こめかみのあたりが痛くなるほど泣き出してしまった。
雨が降りしきる中だったので、いくら泣いても涙は雨とともに流れ落ちた。

そんな中、警備隊の方々、救助隊の方々は疲れているにもかかわらず、そばで我々が手をあわせている間じっと待っていてくれた。

K君はスノーボートに乗せられて、一旦平標小屋の庭まで運ばれた。
天候が悪いために、ヘリコプターは使えず、人力で下ろすことになった。

16時00分下山開始。
登山道をスノーボートで下ろすのは意外に手こずる。ボートの前に三本のシュリンゲを結び三人で引っ張る。後ろはザイル二本でサポートする体制で進んだ。
私は前で引っ張る役だったが、肩に食い込むシュリンゲそしてぬかるんだ道に足を取られて、フラフラになってしまった。最後はついに力尽きて、警備隊の方と交代する失態を演じてしまった。
17時32分登山口に到着、遺族と対面する事になった。

沼田警察署での検死と、3時間あまりの事情聴取を終えた時は23時に近かった。

9月22日通夜
K君が丹精した庭には花が咲き乱れていた。
そして奥様と7歳5歳の子供は長い弔問の列が途切れてもなを、棺の前に正座をしていた。

9月23日葬儀
雨が降り続く一日だった。


これからが忙しくなる。その方が気が紛れるからいいかもしれない。




                   K君やすらかに
                               合掌

                     群馬山岳移動通信/1997/