安政遠足コースで登る「子持山」
登山日1994年11月19日


子持山(こもちやま)標高1107m 群馬県碓氷郡

 旧中山道の碓氷路は、毎年五月の第二日曜日に我が安中市を起点に、熊野神社までの道を走る「安政遠足(あんせいとうあし)」が行われる。これは通称「侍マラソン」として親しまれ、様々な侍の仮装をしたランナーが走る事で知られている。

11月19日(土)

 気象情報によれば今日は雨の予報が出ていた。しかし朝寝坊をして起きてみると、なんとも素晴らしい天気で、おまけに暖かい、山歩きに絶好の日和だ。目的地は碓氷峠と決めて慌てて自宅を出発したのは九時過ぎだった。

 旧国道十八号線を走り、途中のコンビニで食料を調達して、登山口の「カーブ9」地点に着いたのは午前十時だった。登山口は車が数台駐車出来るスペースがあったが、今日は私の車一台だけなので、静かな山歩きが楽しめそうだ。

 「8km」の標識のある登山口からは、いきなり急な登りが始まった。本当にマラソンランナーは、こんなところを走るのだろうか、と感心してしまう。杉林の中を登りきると送電線の鉄塔があり、なおも急登を登る。時折下の方で、信越線を通過する列車の音が機械的な音を立てている。そこを過ぎると、柱状節理の岩があり、その説明書きが書いてあった。「火成岩が冷却固結・・・」とあり、見ると4畳程度の広さの岩が、柱を並べた様になっている。この岩はもろいようで手のひら大に細かく、はがれて落ちていた。これを集めて私の身長程の高さの、ケルンがふたつ作られたいた。

 ここからは説明板が多くなってきた。とてもメモできる数ではない。

 「覗き」と呼ばれたところでは眼下に坂本宿が見える。町並みの向こうには裏妙義の岩峰が、紅葉に染まっていた。ここから再び急登が始まり、「弘法井戸」に着く。ここは実際に井戸が掘られており、上から50センチ程のところまで水が溜まっていた。井戸の上には屋根が、かけられていたが、ゴミが多く飲むには勇気が必要だ。そばには「肥柄杓」が置いてあったので、ますます飲む気は失せた。

 道は相変わらず急登だ。刎石山の風穴などと言うものもあり、手をかざすと微かに風が来るような気がした。ところで刎石山は何処なのだろうか、とあたりを見回しながら歩いたのだがさっぱり見当がつかない。そうこうしている内に、明らかに刎石山とは離れた位置まで歩いてしまっていた。

 刎石山を過ぎたと思われる地点から、意外なほど平坦な道に変化した。落ち葉を踏みながら、晩秋の一日をゆっくりと歩いた。道が若干下り坂になったところが「堀切り」と呼ばれるところだ。ここは両側が人工的に崩されて、道が細くなっている。これは昔、敵を迎え撃つために作ったと看板に書いてあったが、なかなか大変な工事だったと推測できた。

 次は「座頭ころがし」と妙な名前のついた坂にさしかかった。これは道が赤土で滑り易く、おまけに岩が多い為に付けられた名前らしい。それを過ぎると、「5km」の標識が現れ、なんと側に車が放置されていた。車種はマークUで、ガラスは全て割れていた。どうやってこんな登山道に持ってきたのか不思議だ。道幅はこの車が走行するには、無理があったからよけいだ。とにかく不気味なので足早に通過した。

 道が明るくなり開けたところが、栗平だった。「軽井沢」の標識もあり、県境が近い事を伺わせる。立ち木にはその名前を書いた名札も取り付けてあった。ここは明治天皇御幸行の折に、番所が作られこれが交番の始まりだったらしい。

 平坦に近い道を辿ると、山中茶屋跡に着いた。ここには朽ち果てたプレハブ小屋が、夏草に囲まれて建ててあった。これも不気味なので足早に通り過ぎる。ここからは明らかに車道の様相を呈した道で、再び車が一台放置されていた。ここからは山中坂と呼ばれる、なだらかな坂が続いており、この坂はきつい坂で腹が減っていると歩けなくなるので、この下の山中茶屋が栄えたらしい。

 坂を登り続けると、一軒家跡があり説明板によれば、昔ここに老婆が住んでいて、ここを通る旅人を苦しめたと言う事である。ここも不気味なので足早に通り過ぎる。

 さらに歩くと、右側に朽ち果てた別荘があり、左側にはやはり朽ち果てたレストランがあった。これこそさらに不気味なので、駆け足に近いはやさで通り過ぎた。こんな建物があるところを見ると、戦後ここも栄えた事があったのかと、想いをはせた。

 そしてやっと「子持山」の看板が現れた。しかしそれは登山口を表すものでなく、子持山を詠んだ歌が書いてあるものだった。事実何処を見ても入り込む道らしきものは、見あたらなかった。しかたなく、今歩いている道が尾根にあたるところから、登る事にした。おそらく尾根ならば道がある事が考えられるからだ。

 四分間ほど歩くとそれらしき場所に着いた。しかし不安があるのでもう少し先に行ってみる。百メートル程行くと標識があり「2km」とあるので、登山口から六km歩いた事になる訳だ。熊野神社まであと二kmなのだが、今日の目的は子持山だ。振り返ると子持山の一部が見えている。さては先ほどの場所しか登る事は出来ないようだ。

 戻って尾根に取り付くと微かに踏み跡があるようだ。しかし猛烈な薮だ、何度か身体が押し戻されてしまう。途中に一升瓶が落ちているところを過ぎると、薮も少しは楽になった。大きな岩にさしかかると、遠くからチャイムが聞こえた、時計を見ると正午だった。そこを過ぎると、平坦な尾根の山頂部分に着いた。その中の一段と高いところに登るとそこが子持山山頂だった。

 赤テープなどの目印は全く無かったのだが、ブリキのプレートがあり、子持山の名前と標高1107mの文字が書かれてあった。裏を見ると「YAMA ROOM」と書いてあったので気になったのだが、誰の落書きか分からなかった。私も自分のコールサインをフェルトペンで記入して置いた。山頂からの展望は、やはり一ノ字山、留夫山あたりが良く見えている。しかし葉が落ちなければ、これらを見る事さえも不可能であろう。無線はあまりロケーションが良くなく、2局とQSOしただけだった。

 帰りは往路を忠実に辿って帰った。特に不気味なところもあったので、つい足が早くなった。しかし侍マラソンランナーの様に早くはなかった。


「記録」
登山口10:07--(.26)--10:33覗き--(.06)--10:39弘法の井戸--(.14)--10:54堀切--(.19)--11:13栗平--(.18)--11:31山中茶屋跡--(.12)--11:43尾根入り口付近11:51--(.10)--12:01子持山山頂12:56--(1.16)--14:12登山口


                     群馬山岳移動通信 /1994/