猫吉さんの500回記念山行同行記 

登山日1997年3月23日















十二社ノ峰(じゅうにしゃのみね)標高1399m 群馬県利根郡


 猫吉さんの山行回数が、500回の節目を迎えるという。500回と言う回数を記録しているという事自体が、無精な私から見ると信じられない。自分には到底出来ないことをやってのける猫吉さんは、私にとって憧れの人でもある。

 そんな猫吉さんが、500回の山行が間近に迫っていると言うので、是非同行をお願いした。ところが天候が悪かったり、私が風邪をひいたり、お彼岸の墓参りがあったりしたために、2週間程この記念山行は延期となってしまった。二転三転してから決定したのは1997年3月23日、場所は群馬県北部の「十二社ノ峰(1399m)」となった。

 これまでの、猫吉さんとの山行を振り返ると以下のようになる。

1987年 9月13日 浅間山
1988年 3月13日 表妙義山縦走
1992年 1月 4日 庚申山(JA1JCA-RBBS新年会)
1995年 2月12日 安中の山(7座)
1995年 7月16日 松手山、平標山、大源太山、三国山
1995年10月22日 朝日岳、笠ヶ岳、白毛門、松ノ木ノ頭
1996年 4月 6日 栂ノ頭、コシキノ頭
1996年 4月21日 境野山、高畠山、雨見山
1996年 5月18日 三岩山、阿能川岳、小出俣山
1996年 6月 1日 浦倉山、四阿山、茨木山
1996年11月 2日 マムシ岳
1996年11月30日 御巣鷹山

 よくよく見ると初めはまともだったが、だんだんとヘソが曲がって、人があまり寄りつかない山が中心となってしまった。そして今回も相変わらず、まともな人は見向きもしない辺境の山だ。

 彼は私に逢う前から、どうやらマイナーな山に登っているふしがある。もっとも彼を私に会わせたのは「山と無線」の前身の「山岳移動通信」の創設者QUYだ。彼の紹介だから、まっすぐな人はいないようで、みんな寄り道をしたがる性格の人が多い。私は「山岳移動通信」にファイルを書いたばかりに、猫吉さんからは「巻き巻きの君」などとあだ名を付けられてしまっている。もっとも最近は私の体重が多いものだから「安中の重鎮」というのも定着してしまった。

 山行の前日は、ともかくどこかの空き地で野宿をして、前夜祭をやろうと言うことになった。猫吉さんは10年間乗り続けているデリカスターワゴン、(最近は黒煙がだいぶ目立ち始めている)私はエスティマ・ルシーダなので、車での野宿のパターンは常となってしまっている。登山口近くの川縁で車を二台並べて駐車、まずは直ぐに寝られるように準備をする。そのうちに猫吉さんから声が掛かったので、デリカに移動してここで前夜祭の祝宴をあげた。ここで出たおつまみが、なんと4ヶ月前の御巣鷹山の時に食べたニンニクだった。しかも生のままのものである。嫌がる私に、「一緒に食べないと臭いが気になるから食べろ」と脅迫する。仕方がないので口にしたが、この車の中で年を越したニンニクを旨そうに食べられる猫吉さんは、やはりただ者ではない。

 明けて、翌日の朝は快晴だ。川縁に駐車したのが悪かったのか、釣り人がひっきりなしにやってくる。それに漁協の人だろうか、車の中で人の行動を見ている人がいる。おそらく、つり道具でも持って川に入ろうものなら、直ぐに鑑札を購入させるに違いないと思った。

 さて登山口である「川古温泉」に車を移動して、出発の準備をする。いよいよ500回記念の山歩きに向けて気持ちが高揚する。猫吉さんはこんな節目の山歩きでは、ことごとくアクシデントに見舞われている。300回は甲州楢の木尾根で、藪の目つぶしと捻挫に苦しみ、400回は西上州船坂山で転倒、這々の体で帰還している。

 はたして500回はどんなアクシデントが待ちかまえているのだろうか?

 まずはその前兆として、出発しようとしたら、猫吉さんの車の車幅灯が点灯したままだ。このままではバッテリーがあがってしまう。そこでいろいろとヒューズを引っこ抜いて見たが、相変わらす車幅灯は点灯したままだ。苦肉の策で、仕方なくバッテリーの端子を外して、やっと消すことが出来た。まずは前途多難な出発前の出来事だった。それに今回猫吉さんは、準備して置いた伊予柑を自宅に置き忘れるという失態をしでかしている。

 まずは林道歩きから始まる。途中で雪が深くなったのでワカンを装着した。猫吉さんの用意したのは「芦峅」、私のは「谷川」である。ワカンをつけると、歩くのが不自由になるだろうと予想したが、簡単に雪の上を進むことが出来る。かなり調子が良いものだから、ハイペースでピッチが上がった。雪道には先行者の足跡が雪の中に潜りながら続いている。おそらくこんな処に来るのは、登山者でなく釣り人だろうと話し合った。

 林道はやがて分岐となり、右は千曲平に行くものと思われる。此処で地形図を見てルートを検討するが、どうも実際の地形と異なるようでさっぱりとわからない。ともかく「十二社ノ峰」のピークはあれだろうと、見当をつけて登ることにした。

 猫吉さんはいきなり雑木林の藪の中に踏み込んだ。わたしは少し戻って杉の植林の中の方が、藪が少ないだろうと考えてそこから山に取り付いた。猫吉さんとは距離はあるものの、沢の流れを挟んでお互いの顔がわかる程度だ。それでも次第に距離は狭まって、ついに猫吉さんが沢を渡って私の方にやってきた。それは猫吉さんの歩いている処から取り付く尾根は、雪が消えて藪が出ているためだった。雪と藪を選択すればやはり雪の方が良いと思うのが自然だ。

 とりあえず尾根に乗ろうと言うことで、雪の急斜面を登ることにした。ピッケルが邪魔になったので、背中にさし込んで両手は灌木につかまりながら登ることにした。あまりの楽しさに、お互いのトレースは利用しないで、雪の中を平行して登った。

 尾根は痩せており、雪はかなりの深雪が乗っていた。これは苦戦しそうだと、嫌な予感が頭の中をかすめた。まだ元気が残っているので、私が先行して尾根を登ることにした。ワカンは結構快適に雪の上を歩くことが出来た。しかし、雪の下の空洞に足を踏み入れると、こんどはワカンを引き抜くのが大変だった。

 標高1000メートル付近で、しばし休憩することにした。眼前には小出俣山が大きく見えており、山頂から派生する尾根が明瞭に見えていた。昨年猫吉さんと、あの尾根で熊の足跡にびっくりして、尾根を外してウロウロしたことが滑稽にも思えてくる。ラジオののスイッチを入れると懐かしい響きを持った菊地章子さんの歌声が聞こえてきた。おもわず猫吉さんとその声に聞き惚れてしまった。

 こんどは猫吉さんが先行して尾根を登り始めた。しかし、いつもの元気がないので、その原因を考えた。どうやら、自宅に伊予を忘れたのと、車の電源系統のトラブルが気になっているのかもしれない。標高1100メートル付近で再び私が先行して歩く事になった。ワカンを装着しての急登はなかなか手強く、雪の吹き溜まりにはまったりすると、とんでもない労力を費やして脱出をしなくてはならなくなる。そんなとき、後ろの猫吉さんから、声が掛かった。どうやら倒木の間に両足ごとはまって、顔をその倒木で強打したらしい。そのときにメガネも強打したが、なんとか無事だったと言うことで、まずは一安心である。

 標高1200メートル付近で、見晴らしがよいところがあり、思い切り休憩する事にする。いつしか小出俣山の山頂部分は雲がかかってきている。どうやら天候は下り坂で、空から冷たいものが落ちてくるのも時間の問題と思われる。伊予柑を忘れた猫吉さんに、持参してきたフルーツゼリーを渡し、のんびりと眼下に見える風景を楽しみながら口にした。

 再び急登の斜面に取り付いた。ピッケルは持っていても潜ってしまうので役に立たない、背中に挟んで両手を空けて雪の中に手を突き刺してもがくようにして登る。はじめは猫吉さんと平行して登っていたが、時折猫吉さんのトレースに合流してそれを利用させてもらった。正午少し前になったので、ラジオのスイッチを入れて天気予報を聞いてみた。すると関東一円雨模様で、自分たちがいるところだけ雨が降っていないのが不思議なほどであった。

 この付近は地形が複雑で、地形図に表れていない方向から、標高1300メートル付近で再び尾根に乗ることになった。尾根に乗ったところで立ったまま、つかの間の休憩で息を整えた。さていよいよ最後の急登にとりかかる事になった。猫吉さんが先行して二人とも無言で斜面にステップを切って行く。そして藪も少なくなり、疎林を抜けたあたりで猫吉さんが驚いた様子で、声にならない声をあげた。「人がいる!!」まさかそんなことがあるのかと、先を急ぐと、確かに男性が同じように驚いた顔つきでこちらを見ている。

 真っ白なドーム状の盛り上がりの雪の斜面をひと登りすると、先ほどの登山者と女性がひとりザックの上に腰掛けていた。先行者はどうやらここから小出俣山を目指したが、時間切れで断念帰る途中だという。こんな人に知られていない山に、これだけの大人数が集まったことは偶然とはいえ凄いことに違いない。先行者たちは我々が登り始めたY字路の分岐をさらに奥に進み、終点あたりから登ってきたらしい。その先行者は記念撮影をして、早々に自分たちの登ってきた道をそのまま下っていった。山頂は猫吉さんと二人だけとなった。

 ワカンを脱ぐと鎖を解かれた囚人のように軽快になって、山頂を歩き回って見る。ともかく山頂に山頂標識を取り付けなくてはならない。すでにGさんの標識はよい場所に取り付けられている。そこで猫吉さんが目を付けたのが、すでに枯れてしまっているが、シラビソの大木である。そしてその前で、横断幕を二人で持って記念撮影をした。さらにイタリア産のシャンパンを抜いて、500回山行記念の祝杯をあげた。

 記念山行の無線の運用は、ロケーションが悪いために全く応答がない。こんな時は群馬伊勢崎レピーターのFDIに頼るしかない。折しもCFRと交信が終了したところなので、思わず声をかけて呼びかけた。村上さんには苦労してもらって、シンプレックスにQSYしてもらいQSLを確保した。結局奥の手以外は村上さんの一局だけで終了してしまった。
十二社の峰山頂
 山頂は時折小雪が舞い落ち、寒くてとてもゆっくり出来る状況でなかった。各セレモニーが終了したところで、先行者が下ったトレースを辿って下山した。

 再び林道を歩いて川古温泉に戻ったが、その途中に猫吉さんが目眩がするとつぶやいた。それに幻覚なのか人がいるのが見えると言う。どうやらその原因は、最近購入したポケット型のパソコンを使いすぎて、目がおかしくなっているという。それならば私がそれを引き取ると言ったが、首を縦には振らなかった。

 車に着いてから、バッテリーを復帰してどうやら帰宅可能となったデリカを確認して私も帰途についた。

後日談(バラしたら怒られるかな)
 「バッテリーの件」実はパーキングライトのスイッチが、何かの弾みで押されて点灯した物と判明した。従って車は何の異常もなかったとのこと。そういえば10年間4WDの切り替えを、走行中に行っていたのも同一人物だったような・・・・・。

 「目眩の件」実は登るときに、雪に足を取られて倒木にはまり、メガネを強打したときにときにレンズが片方無くなっていたとの事。猫吉さんは帰りの銭湯で、そのことに気づいたようで、全く信じられない大胆さだ。まあ同行していた私も、全く気づかなかったのだから同罪かもしれない。

 ともかく、この「山と無線」が発行する頃は、猫吉さんも新たな気持ちで山から声を出していると思う。そんなときに、また何度か同行できたら楽しいと思っている。私にとって、猫吉さんは貴重な山の師であり、パートナーだからだ。


                      群馬山岳移動通信 /1997/