非常通信* 「妙義山」


 1981年(昭56)4月5日午後10時頃

 私は会社で仕事中でした。そんなところに会社の山仲間の一人から電話がかかってきました。内容は”社内のI君が表妙義山で遭難したらしい、ついては会社の山岳部で捜索隊を出すので協力してほしい”と言うことだった。

 I君の奥様は、私の小学校と中学校の同級生であり、つい半年前に二人は結婚したばかりの新婚だった。そんなこともあり私は直ちに参加する旨を伝えた。急いで家に帰り、とりあえずヘルメット、ゼルブスト、三ッ道具をザックに詰め込み出かけた。妻も二人の事は知っていたので、心配そうに私を見送った。集合場所は”東雲館”と言う妙義神社の下の旅館だった。仲間はすでに集まっていたが、皆の口は重かった。それはもう最悪の事態が予想されていたからかも知れない。

 I君の行動は、4月4日朝に日帰りの予定で妙義神社登山口から山に入ったのだが、一夜明けた4月5日の夕方になっても帰らないと言うことらしい。既に山に入って約40時間が経過している訳である。それに前日は午後より雨が降り、天候の具合からも事態を深刻に考えざるをえない状況だった。

 午前0時頃作戦会議がもたれた。まず隊をふたつに分けて縦走路を挟むようにして捜索することにした。連絡は144MHzのFMハンディ機(FT207)で行うことにした。ハムの免許を持っているものが捜索隊に加われば良いのだが、あいにく免許を持っているものは山の経験がないものばかりだった。しかたなく私が無線機を持つことにした。当時私は従事者免許も持っていなかった。しかし、”非常通信”ならば問題はないだろうと言うことでアマチュア無線機を使う事で連絡方法は決定した。

 午前3時頃、布団に入ってやっとウトウトはじめたころ、会社の上司が「すぐに出発しろ」と騒ぎ始めた。我々もすぐに捜しに行きたかった。しかし、外はまだ暗い。この闇のなか、岩場を登るのは大変な危険がある。我々は二重遭難の危険を訴えた。だがどうしても出政しろと言う。しかたなくリーダーの判断でとりあえず岩場の始まるところまで行き、夜明けを待つと言うことになった。

 ところが我々には水も食料も全く用意が無かった。僅かに山岳部のOBの奥さんが差し入れてくれた夜食の残りのみだけだった。こんな時は全員、気が動転しているものだ。私も旅館が集合場所だから、食料くらいは大丈夫だろうと思っていたのだ。しかたなく水も食料も持たずに暗闇のなかを歩き始めた。

 簿明が始まる頃から本格的に捜索に移った。

 「おうい!I君」「どこだぁ」「返事をしろ」

縦走路中の迷いそうな沢筋や、岩陰に向かって呼びかけた。
そして、定時連絡

 「こちらはB隊です、現在白雲山頂上付近です。未だに発見できません。」

初めて使う無線機に緊張しながら話しかけた。

そして、次の定時連絡

 「今、I君のものとおもわれる足跡を発見しました。」

 I君は、数日前に新しい登山靴を購入しており、今回の山行はその靴の足慣らしの意味もあったらしい。そんなわけで、そのビブラム底の足跡は土の上にくっきりと鋭角に刻まれていた。我々はその足跡を辿って移動を始めた。

 一方連絡本部では”非常通信”に大騒ぎだったらしい。それは

@非常通信と言うのは、本人が重大な生命の危機に遭遇しているときに行うもので捜索 隊が勝手に非常通信を行っても良いのか?とのクレームが何件もあった。

A当時でも、144MHzの混みかたはひどく、ひとつの周波数を独占するのは大変だった。特にいたずらに行われる「周波数チェック」には、その度に非常通信の説明をしなければならなかった。

B初め連絡本部を山の直ぐ下にある妙義神社に置いたのだが、意外と受信がうまく行かず約10キロ離れた妙義山全体が見渡せる所に本部を移した。

Cこれは後日だが電波管理局(当時の名称)に報告書を提出しなければならなかった。

 本部も大変であったが、山の上にいる私も気がもめていた。それは一昨日の4月4日に友人のH君が福岡から群馬に戻る途中、姫路付近でトラックと正面衝突して亡くなっていたのです。前日はH君の自宅に弔問に行き、その後会社で仕事をしていた矢先の遭難連絡だったのです。私はそのH君の花輪を手配する役をだったのです。しかし山にいる私にはそれが出来ません。誰かに葬式に使う花輪を依頼しなくてはならない。でも、ここで連絡用として使えるのは無線機しかありません。しかし、これを使うと一緒に無線を傍受している、遭難したI君の家族によけいな負担をかけるようで、なかなか言い出せません。

 結局ことわりをいれて、無線で花輪の依頼したが実に後味が悪く、今でも心の中に残っています。

 午前10時頃、中ノ岳神社方面から捜索していたA隊から「I君を発見した!現在確認中」との連絡が入った。場所は通称「鷹戻し」と言われる岩場だ。我々は現場に急いだ。

 これは後から聞いた話ですが、A隊は連絡で「I君の遺体を発見しました」と言ったそうです。それを無線機のそばにいて聞いた奥さんはその場に泣き崩れたそうです。その場にいた人はどうしてよいか困ったそうです。そんなときは「只今、I君と思われる人を発見現在確認中です」と言うべきなのだそうです。

 特に医者でもない私たちが、人間の生死の判断をするのは止めた方が良いと思われます。

 我々B隊が「鷹戻し」に到着したとき、A隊は岩場にルート工作を行っているところだった。現場は岩壁のテラスから約80m程落ち込んだ沢である。テラスの上部は100m程岩壁がありその上に足跡があった事から、彼は約200m近くを滑落したと推測出来ます。登山道から覗くと、暗い陰気な沢にI君と思われる物体が、落ち葉の中に同化したように見えた。そして、その下方には彼のものと思われるザックが転がっていた。

 最初に発見したS君の話によると、皆でテラスでひと休みしたのだそうです。そして休んだ後、出発前に小用のために沢に向かって前を開け下を見たのです。そうしたら、沢に何かあると言う事で分かったのだそうです。まさにここでS君が尿意を感じなければ、芽ぶきの始まった山の中である。やがて木々の葉に覆い隠されて、I君の発見は遅れたと思われます。まさに奇跡が起きたのでした。

 現場へは40mのザイルを2本使って懸垂下降で降りた。I君は頭を下に向けて黒いヤッケをその頭にかぶせる様にしていた。考えたくない事だが、200m近くの岩場を頭蓋骨の半分を失っていたにもかかわらず、まだ意識があり、痛む頭をかばうように自らの手でヤッケを被ったのでしょうか?

 今はもう身動きひとつしないI君は最後まで生への執念を持っていたのでしょうか?いや持っていたのでしょう。そう考えたい。

 前日の雨に打たれた落ち葉の上に体を横たえる彼に、思わず皆手を合わせた。彼のザックを持ち上げると、蜜柑が3個こぼれ落ちた。そして、真新しい登山靴は彼と共にいた。

 彼は我々の作ったミズナラの木の担架に乗せられて山を降りました。

 今でも、彼のために積んだケルンが星穴沢の出合にあります。毎年妙義の山の木々が芽吹く頃、その時捜索に参加した多くの人々に彼の思い出がよみがえります。



                          群馬山岳移動通信N/1981/