怪我人が禁を犯して浅間山に登る

登山日1998年7月4日

浅間山(あさまやま)標高2568m 群馬県吾妻郡・長野県北佐久郡

浅間山の火口
5月25日に愛用のスクーターで走行中、思わぬアクシデントで転倒。右足にスクーターが乗った格好になり、骨折は免れたものの捻挫が三箇所と親指の靱帯損傷でとても歩ける状況になくなってしまった。とにかく傷口が塞がるのにたっぷり1ヶ月、現在も捻挫治療のために、接骨院に毎日通院する生活が続いている。ともかく今回のケガで親指の大切さを改めて思い知らされた格好になった。とにかく歩くと言うことは、足の指で地面を掴みながら移動する事で、親指が動かないとそれが出来ないから、足を引きずることになる。最近は徐々に回復してきたが、しばらくは親指の感覚が無く役に立たないものだから、それは足にくっついているイボのようだった。

 ともかく階段の昇降だってままならないのだから、山歩きなんてとんでもない事だった。それでも最近の週末は天候がすぐれないので、どっちみち山には行けないから、あきらめがついていた、しかしここのところ、隣の榛名町で全国一の暑さを記録するなど、まるで梅雨明けになったような猛暑がやってきた。足も何とか動くようになったので、これが果たしてどの程度の回復状況なのか試してみることにした。

 7月4日(土)

 浅間山の登山口である「峰の茶屋」は標高1406メートルだが、朝だというのにすでに蒸し暑い。駐車場には車が数台駐車してあるが、登山者のものは無いようだ。支度をして歩き出すと汗がすぐに滲んでくる。しばらくは、樹林の中の道をシモツケソウの鮮やかなピンクの花を見ながら、ゆっくりと歩く事にする。足の状態は、さしたる痛みもなく歩くだけならば、問題ないようだ。それは登山靴は靴底が堅いのと、足首まで保護されているのが幸いしているのかもしれない。

標高1600メートルの森林限界を過ぎると、目の前には荒涼たる砂礫の風景が広がった。目の前の遙か彼方には、噴煙を上げる山頂部分が見えている。オンタデ−コメススキ群落の中を一直線に砂礫の道は延びている。振り返ると小浅間山が次第に眼下に小さくなり、ゴルフ場の区画や白く見える道路が掌に収まるように見えてくる。

 行者返しは、標高約2000メートルで、昔から浅間山に登る場合はここが中間地点と考えている。道はここから北東斜面をトラバース気味につけられており、冬場はアイスバーンになっていて緊張するところだ。考えてみると何度も浅間山には登っているが、この夏の時期は初めてと思われる。それは何となく浅間山には雪が似合っているような印象を受ける。

 オンタデの緑色も少なくなり、息を切らしながら標高を上げると標高2450メートルの東前掛山の縁の広場に付く。ここからは山頂に向けて、大きな火山礫の道をジグザグに登る。時折上空をものすごい音を立てて、横切るものがあるので、思わず身が震えるほどの恐怖心を感じた。目を凝らして確認するとそれはツバメで、高速でこの山頂を飛び回る様子は驚異的なものだ。

 苦しい登りを続けると急に目の前が開けて、顔面に強い風を受けて帽子を飛ばされそうになった。そこは紛れもない浅間山山頂だった。ドクターストップがかかりそうな状態での登山だっただけに、よくぞここまで持ちこたえたものだと思った。足は何とか持ちこたえたが、1ヶ月以上も山に登らないと、体力が落ちたのがむしろ厳しく感じた。

 山頂には大勢の登山者がおり、言葉を交わすとほとんどが火山館経由で登っているようだ。火口はいつもの通りだが、盛んに噴煙を上げる様はとにかく圧巻だ。それに引き替え、眼下に広がる山々の緑は美しく、とりわけ西上州の山並みは素晴らしい。しかしそれにしてもここはなんと寒いのだろうか。持参したセーターを着てもまだ寒いので、ヤッケを着込む始末だった。ここは下界の寒さとは無縁の世界のようだ。

 山頂ではFDIと交信する事が出来た。登山途中ではCFR、日光に移動中の渋沢先生とも連絡を取れた。みなさんお元気なようで、早いうちにみんなに追いつき山歩きが順調に出来ればと思った。

 下山はかなり足に負担がかかり、通常ならば難なく通過出来るような所もかなりの困難を要した。とにかく足首がなにかフラフラして、一定しないのでそれが一番の負担である。
今日はそれを見越して砂礫の山を選んだのだが、それでもこの状態。完全復活はまだ先のようである。


「記録」

07:47峰の茶屋--(.20)--08:07馬返し--(1.09)--09:16行者返し--(.11)--09:27休憩09:41--(1.14)--10:55浅間山山頂11:46--(1.19)--13:05峰の茶屋


群馬山岳移動通信/1998/